ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m
「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」
By トーマス・マン
といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。
*いじめられっ子のホンネ
ワタクシは発達障害当事者の支援をしてる&ワタクシ自身も当事者なんで、当事者や家族や関係者とよく会うし話もするのである。でもって障害の特性上、当事者はいじめのターゲットになる場合が少なくないし、かくいうワタクシもそうだったりするのである。そういった自他の経験を踏まえて、いじめられっ子になり易いヤツってのは、とある共通点があるのである。ソレは「他人への依存が強い」という事である。いじめのターゲットになるヤツってのは基本的に自己主張が無く、何かに属す事で自己アイデンティティーを築いているのである。いじめられっ子が逃げたり反撃したりできないのは弱いのもそうだけど、ソレをする事で属してるモンとの繋がりを失う事を恐れているのである。
だからいじめられると「自分が悪いから仕方ない」か「自分を守ってくれない所属と、ソレを管理する行政が悪い」って考え方になるのである。いじめられっ子的には「自分が清く正しく振舞い、所属先に害をなさなければ、自分が害される理由は無い筈」って考えてるけど、実際にはその所属先ってのは主体性を持った人間のエゴで出来ているのである。だから自身もエゴを強く持たないと、強く持ってるヤツの標的にされちゃうのである。いじめられっ子が成長するとサヨク運動に走ったり、或いは宗教に走ったりする事が多いのも、つまりそういう事である。いじめられっ子は「自分以外の絶対的な何か」を求めてるのであり、ソレが人権であり、自然であり、神であり、憲法だったりするのである。
そう、世の中って実際はエゴとエゴのぶつかり合いであって、ルールや法律ってのはあくまで調整役でしかないのである。F1なんかが分かり易いけど、レギュレーションはあっても皆が皆その裏をかこうとするし、レギュレーションに無い事はガンガンやっちゃうし、何だったら解釈を捻じ曲げてまで通してしまう。よく「法律ガー、憲法ガー、人権ガー」っていうけど、その概念はエゴを持った人間が作ったモンなのである。そう、エゴを強く持たないと、世の中じゃ生きていけんのである。ワタクシが見た限り、ソコに気付く人が上手く脱いじめられっ子していて、ソレに気付かないor認めたくないヤツが敗者的メンタリティーを引きずったまま大人になってしまうのである。
*人生のほろ苦スパイス
だから学校で学ぶべき事は勉強だけじゃなく、社会のそういう側面をも含めてである。だからワタクシは前にも言ったようにドッジボールはバンバンやるべしだと思うし、学力テストもガンガンやるべきだと思うし、運動会じゃハッキリ順位をつけるべきだと考えてるのである:
ワタクシにこの考えが賛同できない理由は色々あるけど、一番はやっぱり「失敗や挫折を知らない人に豊かな人間は居ないから」である。大事なのは挫折させない事じゃなく、挫折から如何に立ち直らせるかなのであり、ソコが教師や親の出番だとワタクシは考えてるのである。以前ネタにした【ドッジボールの強制参加禁止】でも述べたけど、こういう事言うヤツの相場は決まってる。元いじめられっ子で、挫折から立ち直れなかったヤツである。テメェが立ち上がれなかったのを制度のせいにして、テメェを正当化しようって肚である。
ワタクシが思うに、失敗や挫折ってのは、人生における苦味のスパイスなのである。ソレが主役になる事は無いが、ソレが無い料理は味気が無いのである。上記動画じゃ「先生や友達が教えてあげれば良い」とか言ってるけど、料理同様こういうのって自分自身で味わないと理解できんのである。敗北や挫折を経験して、ソコから努力して克服する。努力で足りないのなら、知恵を使って策を弄する。努力や知恵でも足りないのならコネを使う。全部使ってもダメならばネタにしてギャグとして笑い飛ばす等々(笑)そういった”人生の知恵”を身に付けるのも学校の教育なのである。そういう知恵を身に付けるためにも、失敗や挫折ってのはいわば必要悪なのである。
こう書くと「子供の内にそういうのを体験させるのは可哀想だ云々」とか言われそうだけど、ソレに対しワタクシは「子供時代に体験しなきゃ何時体験するんだ?」と答える次第である。子供の頃に免疫をシッカリとつけておかなきゃ、大人になって外に出たら一気に感染しちゃうって話である。そしてこう書くとまた「病原菌だらけの大人社会をどうにかすべきでは?」と言われそうだけど、ソレに対してもワタクシは「どうにかなるまでどのぐらいかかる?」と答える次第である。古今東西、色んな賢人たちがやってきたけど出来なかった事が、今日明日に出来る筈が無いのである。だったらシッカリ免疫付けて外へ出るか、或いは一生外へ出ないかである。
*勝者の権利
あともう一つワタクシ的に気に食わないのは、コレが結果として勝者の主権を侵害してるからである。負けた人が挫折や失敗を味わうのと同様に、勝者は成功と栄光を味わってるのである。つまり順位をつけないって事は敗者が居なくなるのと同時に勝者も居なくなるという事であり、勝者の主権を侵害しているのである。こういうのを主張するヤツは口を開けば「子供たちの平等ガー」っていうけど、全然平等じゃないのである。人間は一人ずつ長所や短所が違うのが当たり前であり、ソレをハッキリさせ各々の得意分野に応じて褒め称えるのが平等だとワタクシは考えてるのである。何もかにもフラットにしてしまう事は平等でも何でもなく、ただの主権侵害である。
強者は叩いても良い、富める者から奪っても良い、優れた者の主権は侵害しても構わない。何故なら敗者は可哀想な人間だから。そんなモンは平等でも思いやりでも何でもなく、ただの嫉妬とルサンチマンである。でもって挫折から立ち上がれなかったいじめられっ子って、こういう考え方するヤツが思いの外多いのである(-_-)世の中や勝者のせいにして「自分達は悪くない。だからこのままダメになっていっても仕方がない」って勝つために努力しないor出来ないテメェを正当化するのである。たとえ世の中がどんなに悪かろうと、そのに住んでる限りは生きていかなきゃならんのだし、生きていくためには戦っていくっきゃない。そう信じて止まない今日この頃であった。