アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

INVOKING THE MAJESTIC THRONE OF SATAN

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「社会的正義が暴力によって得られることはない。暴力は、正義が創ろうとしているものを台無しにしてしまう」

By ヨハネ・パウロ2世


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*マジメなヤツには要注意

 実を言うと、ワタクシはマジメな人間が好きではないのである。何故なら視野の狭いマジメなヤツってのは、融通が全く聞かない、物事について「なぜそうなのか?」を考えないのもそうであるけど、一番はやっぱ「マジメさに逃避するヤツが多いから」である。マジメなヤツがルールやお作法通りに問題を処理したとして、もしその通りにやっても問題が解決しなかったらどうするのか?ワタクシが目にした答えの多くは「”私は一生懸命やったのだから、問題が解決できなくても仕方がない”って言って問題を放り投げる」である。そう、ワタクシがマジメなヤツを好きになれんのは、心の奥底にこういった自己中心性が感じ取れるからなのである。


 分かり易く言えば、この手の”形だけのマジメさ”に固執する奴の本音ってのは「悪者になりたくない」なのである。ルールや伝統やお作法に従う事のメリットは何かって、ソレさえ守ってればグループの中の一員でいられる事である。グループの一員でさえいれば繋がりが保てて、その繋がりがあれば万が一の時にも安心できるし、何より孤独に陥らずに済む。でもってルールや伝統やお作法をマジメに守るという事は、ソレ即ち「私はこのグループに対し従順ですから可愛がってください」っていう意思表示なのである。そう、形だけの忠誠を見せるヤツってのは、そのグループの永続を望んでるのではなく、そのグループにおける良い地位を狙ってるのであって、極めて自己中心的なメンタリティーなのである。



 ただまぁ、ことニッポンにおいては、その手の生き方って非常に有用だったりするのである。ニッポンは実質単一民族国家だから、一つのコンセンサスにだけ従順であれば、ソレだけで安心して生きていけるからである。でもってニッポンという国は経済的にも豊かな部類に入り、水も安全も限りなくタダに近い。諸外国の人達が「なぜニッポン人はココまで国や組織に従順なんだ?」って疑問を持つが、住んでみればその快適さが分かるってモンである。限りなく100点を追い求めるなら話は別だけど、70点ぐらいなら形式的にマジメでありさえすれば得られるのであり、そして大多数の人間は70点前後あれば満足できてしまうってワケである。


ヘイトスピーチって何ですか?

 話は変わって、ニッポンという国が独特の国家運営が出来てしまうってのも、この実質単一民族国家であるって事が大きいと思うのである。ワタクシは常々「実はニッポン人には立憲主義や民主主義は合わない」と考えてるのである、コレは煽りだとか冗談だとかそんなんではなく、マジな話である。ちゅーのも民主主義ってのは欧米で生まれた概念であり、欧米は多民族多文化がデフォだからである。民族や宗教や文化によって”正しい事”の概念が違うから、玉虫色になる事を承知の上で意見を聞いてもらえない少数派を生み出す選挙をやるし、最低限の「コレだけはやっちゃダメ」っていう法律を設けるのである。そう、民主主義や立憲主義って、基本的にガバガバな決まり事なのであり、最低限のノルマでしかないのである。


 でもってニッポンは実質単一民族国家→この”正しい事”の概念をほぼ共有できちゃうから、善悪の基準をキツキツにできちゃうのである。でも法律ってヤツは多民族多文化前提で作られてる事には変わりないから、結局ガバガバなまんまなのである。だから、こういう事が起こるのである:

そう、法律的な自由よりも、道徳的な規律が上回ってしまうのである。上記のマジメなヤツ云々でも語ったけど、人間ってナマモノは危険な自由よりも、安心できる不自由を選びがちなのである。だから「正しい事をしてるんだから、少しぐらい法律を逸脱しても構わない。たとえ国であっても、皆を敵に回してまで逮捕なんて出来ないはずだ」って考えちゃうのである。


 あとこのヘイトスピーチに関してだけど、ワタクシの考えはヴォルテールのソレと同じで「たとえ言ってる事に賛同できない事が間々あっても、ソレを言う権利は守られるべき」ってトコである。理由は簡単、何が正しくて何が間違ってるかなんてのは、未だに100%の正解は無いからである。アリストテレスは疑う余地もない賢者だけど、その賢者様があの時代は「賢者が考えるためにだけ労力を最大限使えるようにするためにも奴隷は必要」って主張してて、ソレがあの当時の”一番正しい見解”だったのである。で、ワタクシ等が今は最高だと思ってる人権云々、立憲主義云々、民主主義云々は、この先も正義でいられるのかって話であり、ワタクシは「ノー」だと思うのである。


*盗人にも三分の理

 そう、今はとんでもない暴論だったとしても将来ソレが正論になる確率ってのは、どんな言論にでも存在するのである。だから相手の主権を侵害しないという条件を設けた上での言論の自由ってのは、たとえソレが不愉快な事を言ってたとしても必要だと思うのである。だから上記のデモ行動にしても、ソレが法律違反でない限りはやる自由があるし、ソレを阻止する権利は何処にも無いのである。阻止した側に立つヤツは「社会的正義ガー」って言うだろうけど、ワタクシはソレに対し「お前さんの社会的正義とやらは、ホントに普遍的な概念なのか?」と問い返す次第である。断言しても良いが、こういう事言うヤツは、間違いなくニッポン社会以外の社会を知らないヤツである。


 ソレにワタクシは常々思うのである。もし普遍的正義なるモンが存在するならば、ソレは間違いなく世界中で採用されるであろう、と。何故なら人類の歴史ってのは便利さ追及の歴史であり、便利なモンであればリスクが高くても人間は必ず採用し、やがてはそのリスクを克服するのである。船もそう、飛行機もそう、クルマもそう、コンピューターもそう、核技術もそうである。でもって正義というシロモノが何のためにあるのかというと、人間が生きる上での便利さを追求するためにあるのである。正義が便利さである以上、人間としては・・・って話がムダにややこしくなるのもアレなので(笑)さっさと〆るに限る今日この頃であった。