アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

ROCKET RIDE

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「行動を起こすから、その先に何かが生まれる。変化は突然ではなく、小さな努力の積み重ねから生まれるんです」

By 野口健


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*昭和91年

 ニッポンの全盛期って、西暦で言うと1980年代〜1990年代、つまり昭和末期の前後だと思うのである。その頃のニッポンはバブル前後で経済的にも一番脂がのってたし、ニッポン車って世界トップクラスを狙える勢いがあったし、ファミコンスーパーファミコンが世界のゲーム界を席巻してた頃だったし、テレビ番組もメチャクチャ面白かったし、邦楽も高質でバリエーション豊かだったし、やきうも相撲もこの頃が一番盛り上がってたのである。このまんま行けば、マジでアメリカに追いつき追い越すかも。ソレぐらい勢いがあったのは、ガキだった頃のワタクシにも感じたのである。あとはロンマニアの皆様もご存じの通り、平成になってからその勢いは停滞し、停滞したまま今に至ってるって話である。


 何故停滞したままなのか?ワタクシが思うに、昭和が忘れらんないからである。既得権益云々も勿論あるんだろうけど、何ちゅーか「今までコレで成功してきたッ!だから今後も上手く行く筈だッ!」って自負がニッポン人の中にあって、ソレが「素直に海外のやり方を見習おう」って考えに傾くのを意地で拒んでるって感じである。よーするにニッポン人の多くは、昭和がそのまま続いてほしかったのである。海外との競争に晒されずに内需だけで平和に競争できて、水も安全も実質タダで、選り好みしなければ仕事もあって、我慢して定年まで勤めあげれば老後は安泰。つい最近施行された集団的自衛権に反対するのも、グローバル化に良い顔しないのも、心の何処かで「ソレを受け入れたら昭和に戻れなくなるッ!」ってのがあるからじゃないかと思うのである。


*滅びの美学vs生への執着

 そんな「昭和のニッポン」を象徴するモンの一つに、大相撲があるのである。若いロンマニアの方は知らないだろうけど、昔は「巨人・大鵬・卵焼き」って言葉があるぐらい、相撲はニッポンでメジャーなスポーツ(?)だったのであr・・・って、その頃はまだワタクシもまだ生まれてなかったよな、ウン(笑)そんな国民的行事だった相撲において、また一悶着あった模様である:


コレに対するワタクシの感想は「どっちもどっち」ってトコである。確かに変化する方もアレだけど、変化される方もアレだからである。何故なら白鵬はコレが初めての変化じゃないんだから、日馬富士も「白鵬は変化する可能性がある」って事を頭の片隅に置いとく必要があると思うのである。そうすれば・・・

白鵬、変化する

日馬富士、咄嗟の判断で変化を見切る

白鵬、変化した際に一瞬の隙を見せる

日馬富士、その隙を見逃さず、一気に攻める

白鵬に土が付く

日馬富士、ダーティーヒーローを打ち負かし、真のヒーローとなる

(゚д゚)ウマー

・・・っていう感じに、日馬富士の相撲人生における一世一代の大チャンスをモノにできた可能性があったワケである(笑)ルール無用の戦場において、汚い手を使った相手にクリーンな一手で反撃し倒す。こういった週刊少年ジャンプめいた勧善懲悪物語、ニッポン人は大好きだからである(爆)クリーンである事は大事だろうけど、勝つ事はソレ以上に大事なのである。


 ただ「横綱の変化はアリかナシか?」と問われたら、ワタクシは「アリ」と答える次第である。確かに従来の相撲的美学は素晴らしいと思うし、否定もしない。ただソレは自発的に行うからこそ価値があるのであり、強制するモンじゃないとワタクシは思うのである。あともう一つは、従来の相撲的美学以外の美学があっていいと思ったからである。変化でも姑息な小技でも使える手段は全て使って、全力を尽くして勝つ事が美しい。そういうのも美学だと思うし、何を美しいと思うかは受け手が選べばいいと思うし、どんな美学を選択したとしても互いに尊重されるべきだと思うのである。よく「相撲道は保守道」って言うけど、じゃあ保守道とは何ぞやって話である。


 あと従来のソレだと、五体満足で身体の大きな力士以外が横綱になる可能性が無くなるからである。例えばの話、将来舞の海めいた小さな力士や、或いは身体に何らかの障害がある力士が誕生して、ソイツが変化や奇襲や小技を駆使して横綱になったとして、ソイツにも”変化NG、奇襲NG、小技NG”を強要するのかって話である。そんな事をしたら、横綱になって1〜2場所で引退勧告モンである。上記にもあるように、ワタクシは横綱相撲の美学だとか、ダメになったら即引退といった滅びの美学は否定しない。が、ソレ等の美学と同じぐらい、生への渇望も美しいと思うのである。癌になった人が身体を切り刻んででも生きる事は推奨されるのに、何故横綱が変化や小技を使っても生き残ろうとするのはダメなのか、ワタクシ的には理解し難いのである。


*平成28年

 昭和の頃みたいに、相撲にはニッポン人力士しかいなかったor外国人力士がいても少なかった時代なら兎も角、平成の今はもう国際化の時代である。色んな国の力士がいて、当然だが色んな価値観が入ってくる。じゃあソレ等の価値観を受け入れる事は、従来の相撲道の価値観を破壊する事になるのか?ワタクシの答えは「ノー」である。アメリカが色んな国の色んな価値観を受け入れて今の繁栄があるのと同様に、相撲も各国の美学を上手く取り入れる事が出来れば、昔のニッポン的価値観オンリーよりもずっと良くなるとワタクシは思うのである。ワタクシに言わせれば、この時代において尚「ニッポン出身力士の優勝ガー」とか「ニッポン人横綱ガー」って言ってるヤツの気が知れないのである



 じゃあ相撲を昭和に戻して、昔みたいにニッポン人オンリーでやれるのかと問われたら、コレまた答えは「ノー」である。外国人力士の迫力ある相撲を見たら、もうニッポン人だけの相撲なんて見てらんなくなる→ソレやったら人気低下請け合いナシだからである。年号が平成から昭和に戻る事が無いように、相撲に限らずグローバル化に伴う価値観の多様化は最早避けられないのである。何故ならどんな分野においても、多様化の方が単一化よりも常に優れてるからである。繰り返し言うが、多様化は悪い事じゃないのである。最初は色々と面倒な事が起こるだろうけど、互いに理解し合う気概さえあれば、最後は必ずより良いモンが生まれる。ワタクシの人生経験はお世辞にも深いとは言えないが、この事には何故だか自信がある今日この頃であった。