アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

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 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「人間のうちの最高の賢者さえも、金を取りに来る人間よりは金を持ってくる人間を歓迎する」

By ゲオルグ・クリストフ・リヒテンベルク


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


 何て言うか、流石にサバゲーも4年やっているとある意味やる事が無くなってくる。いや、別にサバゲーをもうやりたくないワケではない。やる事が限られてくるようになるのである。思い起こせばサバゲー始めた頃は「アレもやってみたい、コレもやってみたい」とやりたい事が色々あって、それをフィールドでトライアル&エラーやるのがある意味楽しかったのである。もっと原始的な事を言えば、ただ撃つだけが楽しかった(通称トリガーハッピー)のもあったりする。が、こういう原始的な楽しさは時を重ねるにつれて閾値が上がってしまい、最後には楽しくも何とも無くなってくる。


 いきなりでスマンのだが(笑)ココでワタクシの新しい造語の誕生である。ワタクシが大坊の頃講義で学んだ記憶があるのが「ヒトとその他哺乳類の一番の違いは」という問いの答えに「脳ミソの皮質部における"新皮質"と呼ばれる部分の割合」である。ヒトは他の動物と比べ"新皮質"の割合がダントツに高い。まだ確固とした証明は無いが、コレがヒトと他の哺乳類の決定的な違いである「文化」を決定付けているのではないかと思うのである。思いっきり蛇足ではあるが、この"新皮質"と呼ばれる部分は今確認されている最古の人類であるアウストラロピテクス・アフリカヌス(約400万年前)から人類が進化するにしたがって多くなっていて、今のワタクシ達(ホモ・サピエンス・サピエンス)がブッチ切りで比率が高い。


 んで、ワタクシは「オタク」というカテゴリーを"ギーク"とナード"の2つに分けたように、今後は「楽しさ」というカテゴリーを"旧皮質的刺激"と"新皮質的刺激"の2つに分けようと思うのである。キッカケは実に単純である。以前インドア戦へ行った時に、某ナードが超絶ウザかったのである(笑)ゲームが始まったら敵味方構わずショットガンを乱射。勿論"CQB"なんて概念はこれっぽっちも無い上、やたらと装甲が固い。んで、時間切れと同時にバカでかい声で「いや〜サバゲーって楽しいなぁ〜〜」である。その時のワタクシが「も〜イヤ、やってらんねぇ...orz」と考えるのと同時に「"師匠"やワタクシがCQBテクを使って相手を追い詰める行為も"楽しい"で、あのトリガーハッピーなナードがやってることも"楽しい"だよなぁ。何がどう違うんだろう?」と思ったモンである。


 そこで考え付いたのが:

       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
  ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ・∀・)<  わかった、脳ミソ使ったか否かの違いだ
 ( つ  つ  \_________________
  〈 〈\ \
  (__)(__)

という事である。が、脳ミソだったら動物だって使っている。で、動物が快楽を求める時に使うソレと、人間が非動物的な快楽を求める時に使うソレは何処に違いが出るのかと考えてみたら"新皮質"にあるのではないかと思うようになったのである。


 分かり易く言うとこんな感じである。"旧皮質的刺激"とはつまり動物的な本能を直接刺激する類のモノだと定義付けるとしよう。例えば食欲や性欲、闘争本能や暴力衝動なんかである。この"旧皮質的快楽"の特徴は、楽しむために知識も思考能力も必要ない事。分かり易く言えば美味い物を食ったり、プロレスの大技を見たり、エロゲーの濡れ場を楽しむために大学院を卒業する必要が無いのと一緒である(笑)簡単に楽しめる代わり閾値も上がりやすくて、同じレベルの快楽じゃ満足出来なくなる。どんなに美味い物でも食べ続ければ飽きたり、プロレスの大技が益々危険になったり、エロゲーの描写が日を追う事に過激になっているのはこのためだとワタクシは思うのである(爆)


 反対に"新皮質的刺激"は理性に働きかける類のモノだと定義付けるとしよう。こちらは理解するために知識や思考能力が必要となる。F1やWRCを楽しむためにはクルマをああいう風に扱うのがどれだけ難しいか、囲碁や将棋を楽しむためには何十手も先をシュミレーションする能力が、アンディー・ウォーホルの作品を楽しむためにはポップアートの何たるかをそれぞれ理解していなけりゃ本格的に楽しめない。本当に楽しむには時間や脳ミソを必要とする代わり閾値は上がらないか、上がったとしても非常に緩やかである。たとえF1やWRCのレギュレーションがドンドン厳しくなっても、たとえ囲碁や将棋のルールが何百年も前から変わっていなくても、たとえアンディー・ウォーホルが今は亡き人で新しい作品は生まれなくとも、それぞれの魅力が無くなる事が殆ど無いのと一緒である。


 というワケで、ワタクシは真に求めるべきは"新皮質的刺激"であると思うのである。限られた状況の中で如何に上手く立ち回るか、不足した部分を如何に他を使って補うか、そういう事を考えたり実行したりするのはとてつもない手間隙がかかるのだが、一度上手く行くようになるとあとは病み付きである。こうして今日も平塚や富士や筑波で、拝島や千葉や所沢で、如何にして効率的に"攻める"かでアタマが一杯で、仕事の事は何時ものように片隅に追いやられている今日この頃であった。