ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m
「人間は全て善であり、悪でもある。極端はほとんどなく、全て中途半端だ」
By アレキサンダー・ポープ
といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。
*永遠の悪のシンボル
世の中に奴隷は必要である。何故なら賢者は世の中を良くするためのアイディアをジックリ考える時間が可能な限り必要なのだから、時間のムダでしかない雑用諸々はジックリ考えるのに向いてない奴隷がするのが最も効率的かつ良い事である。コレは何処ぞの馬の骨の言葉ではなく、古代ギリシャ最高クラスの賢者であるアリストテレスの言葉である。この言葉を知って以来、ワタクシは「何かを絶対的な善とする考え方はやめよう」と決意したのである。何故なら今は正しいと思った事でも、TPOが変われば悪となり得るからである。ソレとはあまり関係無いかも知れないが、ワタクシには【アジアの若者が何故ヒトラーに憧れるのか】の理由が何となく分かる希ガスのである。ソレは「ヒトラー&ナチスが絶対悪だから」である。
古今東西、世の中には社会や世間と上手くやっていけないヤツってのが一定数居るモンである。でもってその社会や世間ってのは、ほぼ例外なく自分達の常識や風習を”絶対正義”として、自らを”良識ある”人間として、合わないヤツを一方的に断罪するのである。世間や社会は自分達を絶対に正しいと信じて疑わないから話し合いは通じないし、ある程度の方の庇護はあっても何だかんだ最後は数で押し通されちゃうのである。そういう「世間や社会が振りかざす何の根拠も無い一方的な絶対正義」に対するアンチテーゼとして、同じくその世間や社会から絶対悪とされてる存在を旗印にしてアウトサイダー達が「数は力」を実践して集うのである。要するに、絶対悪とされてるものならナチズムだけじゃなく、何でも良いのである。
*今年もやっぱり音楽三昧
まぁワタクシもガキの頃は悪魔だの地獄だの反逆だの戦争だのをテーマにしたHR/HMにドップリとハマっていたんで、その気持ちは良く分かるのである(笑)世間に疎んじられてるヤツ同士が絶対悪のシンボルの下に団結し、皆で疎外感を分かち合って心を一つにする。この一体感ってヤツが物凄い快感なのであり、内向的で不器用なヤツは特に強く感じられるのである。ただワタクシはアスペだったんで、残念ながらその一体感ってシロモノは最後まで感じなかった次第である(爆)ただHR/HMやパンク/ハードコア好きだけは未だに続いてるんで、こうして聴いちゃうのである。
エンペラーのCDを店頭で探すと、コレが実に大変なのである。ブラックメタルの作品を置いてあるようなトコ自体が少ないし、そういうトコがあったとしても在庫があるとは限らないし、取り寄せたらヘタしたら海外からとかになる可能性もあるのである。でもストリーミングなら家に居ながら検索一発で見つかるし、デジタルデータだから在庫切れなんてないし、24時間365日いつでもゲットできるし、しかも(定額制だけど)タダ。CD屋?地獄へ墜ちろである(笑)
- アーティスト:ドロップキック・マーフィーズ
- 発売日: 2013/02/06
- メディア: CD
イレブン・ショート・ストーリーズ・オブ・ペイン・アンド・グローリー
- アーティスト:Dropkick Murphys ドロップキックマーフィーズ
- 発売日: 2017/01/06
- メディア: CD
ドロップキック・マーフィーズの音楽聴くのはすんごい久しぶりで、気が付いたらアルバムを2作分ほどパスしてしまってたのである。ある日猛烈に聴きたくなって、どうせタダ(定額制だけど)だから全部まとめて落としちゃって、聴いてみたらすんごい良かったって話である。アイリッシュ・トラッドとハードコア・パンクの相性がココまで良いだなんて、ホント思いもしなかったのである。何ちゅーか、やっぱ音楽は深いのである。
「nao 5th workstation of Kronos.」 / nao
- 発売日: 2016/02/26
- メディア: CD
「nao 6th workstation of Lilith.」 / nao
- 発売日: 2016/03/25
- メディア: CD
まぁワタクシも大人になったので、悪魔や地獄や反逆や戦争とか以外の音楽も聴けるようになったのである(笑)最近のストリーミングやダウンロードはかなりマニアックなモンまでも配信してたりするのだが、ソレでもコア過ぎたりニッチ過ぎたりすると扱ってない事も間々あるんで、そういう時はCDで購入するしかないのである。特に邦楽は今だCD信仰が根強いので、アニソンやゲーム関係は結構手間が掛かっちゃうのである。何つーか、地獄へ墜ちろである(爆)
*ノーモア絶対
さて、話を戻すとしよう。じゃあどうすればアウトサイダーによる諸々の問題を解決すればよいのかと言えば、答えはやっぱり「絶対悪も絶対善も認めない事」に尽きるのである。たとえ法律で権利が認めて共存できたとしても、ソレは単に「法律でゴチャゴチャするのが面倒臭いから」形式上共存できているだけであり、真に共存してるワケではないのである。だからこそ「自分には今の信念があるけど、ひょっとしたら何処か間違ってるかも知んない。同様に今は相手の信念にゃ納得できんが、何処かに真実があるかも知れない」って考えが互いに頭の片隅においてあれば、違和感は残るけど対話や妥協の可能性が開かれるワケである。何かを絶対視したら、絶対からは対話や妥協は生まれんのである。
ただまぁ、この「何物も絶対視するな」ってのが、簡単な様で難しいのである。何故かと言えば、常に考えて常に学び続けなきゃならないのもそうだけど、責任を取らなきゃいけなくなるから安心できないからである。何かを絶対視するのって、楽で安心するのである。何も考えずただ言われた通りに従えば良いだけだし、万が一失敗しても「風習や常識が間違っていた、自分は悪くない」って言い訳できるからである。古今東西、政治運動だとか宗教だとかにハマるヤツってのは、大概このパターンである。自分の足で立てないから、可能な限り大きな木の下に寄り添いたいのである。人間は愚かなのではなく、ただ単に弱いだけ。何の本に書いてあった事かは忘れてしまったが、ホント的を得た言葉だと思う今日この頃であった。