アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

THEATER OF SALVATION

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「物を乱暴に扱うのは、その物を大切にしていない証拠であるが、さらにその場にいる人の心に対してもまったく配慮をしていないことを示している」

By 山崎武也


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*超分かり易い動画

 ネタ切れが激しい今日この頃(笑)久々に面白い動画を見つけたのである。銃属性のないロンマニアの方には面白くないかも知れんのだが、小銃の発射機構に関する動画である。何が面白いかって、その分かり易さと、順序立ての上手さである:

弾丸を発射するために必要な最低限の機能から始まって「でもこのままだと○○の問題がありますよね、ソコで××を加えて解決します」と続き「××をつけると次は△△が起こるから、ソレを解決するために□□を・・」っていう具合に必要に応じて話が進むから、コレ通して観るだけで「小銃がどうやって機能するのか、ソレに必要な最低限の機能は何か」が理解できてしまうのである。ワタクシも人に説明する仕事をやってるだけに、この説明技術は参考になるのである。


 問題は動画が英語な事だけど、まぁコレはロンマニアの皆様が各々解決していって欲しい次第である(笑)ただアメリカ政府公式の動画だけあって発音はきれいだし、変なスラングや聞き取り難い訛りなんかは使ってないから、ヒアリングがそこそこできれば無問題な筈である。でもって現代の小銃も、基本的にコレの応用なのである:

コレは現代のM4カービンのソレであるが、基本は一緒である。トリガー使ってハンマー解除して、シアーとディスコネクターセミとフルとバーストを制御する。昔はチンプンカンプンだったけど、最初の動画見てから下見ると、分かり易いぐらいに分かっちゃうのである。何ちゅーかトークや文章って技術なんだなと思い知らされるのである。


*BATNAとZOPAって何ですか?

 話は変わって。最近ニッポンでもLGBTという言葉が盛んに聞かれるようになったのである。こういった方々に対するワタクシの見解は、以前にも述べた通りである。即ち「理解はするし配慮も可能な限りするけど、押し付けや無理強いは受け入れらんない」である。実は昔、ワタクシの職場にLGBTのTの方(因みに性同一性障害の男性の方で、手術済み)が患者として来られた事があるのである。でもって、その方が要求した事の一つに「女子更衣室を使わせてほしい、使わせないのはTに対する差別だ」ってのがあったのである(^_^;)ワタクシは猛烈に焦った。何故ならココで対応を間違えれば、すぐさまリアルでもネットでも「ロンは差別野郎」というニュースが世界中を駆け巡るからである(笑)


 でもって、この要求に対しワタクシが提示した案は「女子更衣室の使用は認めますけど、一番最後に使ってくれませんでしょうか」である。よーするにビジネス用語でいうトコのBATNAとZOPAってヤツである。


患者さんのBATNAが「女子更衣室で着替える事」であり、ワタクシのBATNAが「他の女性と一緒になって着替えない事」だったので、互いに「他に誰も居ない状態での女子更衣室で着替える」がZOPAになったワケである。幸い、患者さんもワタクシ等の状況にも配慮を示して頂けたので、何とか上手くやってけた次第である(;^_^A)そう、ワタクシがこの問題に関心を持つのは、ワタクシ自身がLGBTじゃないにしろ社会的マイノリティーなのもそうだけど、実際のそのLGBT問題に直面したからなのである。


*理解≠配慮

 なぜ今になってこの話をしたかというと【LGBTの人たちが震災を議論】って記事を読んで「あぁ、被災地のスタッフも苦労しただろうなぁ(^_^;)」って思ってしまったからである。コレに対するワタクシの見解は「理解と配慮は全く別のモンであり、配慮は相手に余裕が無ければ難しいモンであり、そして震災時においてその余裕はない」といったトコである。こう言っちゃ悪いのであるが、未だこの手のマイノリティーの権利団体ってのは「理解する=配慮される」だと思ってるトコがあるのであるが、配慮に法的義務なんてないのである。もし理解と同時に配慮を強要するのであれば、ソレは最早理解でも何でもなく、単なる命令である。


 アメリカの諺に「馬を水飲み場に連れていく事は出来ても、水を飲ませる事は出来ない」ってのがあるけど、正にソレなのである。マイノリティーに対する理解と配慮ってのは、よーするチャリティーや寄付と同じなのである。やらないよりやった方が良いのは、最早言うまでもない事である。ただチャリティーや寄付をしなかった人を「優しくないッ、冷血漢だッ!」って非難するのは違うだろって話である。配慮ってのは、する側が自主的にやるからこそ価値があるのである。自主的にやってる事だから負担も納得できるし、その負担が後々問題になる事も無い。そう、配慮は負担であるって事、思いの外当事者や支援者は理解してないのである。何故なら生まれてこの方、配慮する余裕もなけりゃ負担に耐えらんなかったからである。


 つまり理解と配慮を願うのならば「配慮という行為が相手にとっての負担である」という事に、当事者側も配慮する必要があるのである。コンビニの募金箱に入れる10円玉も、たかが10円玉されど10円玉なのである。時給が1英世だとしたら、10円稼ぐのに36秒かかるんだから、やっぱ負担なのである。そうやって互いに互いの負担に対し配慮しなければ、本来あるべきWin-Winの関係なんて築けないのである。もし「強い人は弱い人に対し無条件で配慮すべきだ」というのなら、ワタクシはソレに対し反対する次第である、何故ならソレは結局「全てを真っ平らにしろ」ってう悪平等主義になりうるからである。ホントの意味での配慮って実に難しい、つくづくそう思う今日この頃であった。