アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

せめて、人間として。

 アフリカの諺に「施しの手は常に頭の上から来る」という言葉があるのはご存知だろうか。故意であろうが無かろうが、善意であろうが無かろうが、施しというものは強い立場にいるものから弱い立場にいるものに対してなされるものである。「施すもの=強者」は一段高い位置にいて、そこから「施されるもの=弱者」に施す。そういった意味合いが込められている。確かに本多先生や他の人たちの言うとおり、病気との戦いを捨てて楽な道を選べば確かにより良い生活を送れることだろう。だがそれは即ち「ワタクシは弱者です」と自分で認めるようなものである。

 東京のとある本屋で、ALS(筋萎縮性ジストロフィー)の患者の写真が飾られていたのを見た。このALSという病気は体の筋肉が次々と萎縮して行き、最後は肺を動かす筋肉までも萎縮し、多くは20台で死亡する。現在に至っても根本的な治療法は無く、出来る事は対症療法で延命を図ることだけという、ワタクシのそれとは比べ物にならないほどの恐ろしい病気である。

 だがその患者さんは施設で生きることも両親の介護を受けることも拒み、可能な限り自分の力で生きようとした。そして写真の最後は33歳になって、呼吸も自分で出来なくなり人工呼吸器につながれてしまう。もう自分では何一つすることは出来ないし、常に24時間ヘルパーが付いていないと、痰詰まりを起こして窒息してしまう。それでも彼は自宅で生活を続けている。そこで写真はお終いである。

 数年前までは解らなかっただろうが、今のワタクシにはその患者さんの気持ちが痛いほど解る。その患者さんが欲しいのは唯一つ、「一人の人間として生きたい」ということだけなのであろう。普通の人なら、成人になってまだ親に面倒を見てもらう事を恥と感じる。普通の人なら、成人になって自分の稼いだ金で食っていないことを恥と感じる。それらを「弱い立場にいる障害者だから」という理由で世間や社会が許しても、彼(患者さん)はそれを良しとしなかったのだろう、だから自分の力で生きようとしたのだと思う。

 障害者は皆、なりたくてなったのではない(一部、犯罪がらみの例外はあるが)。ある日突然災害に見舞われて、自分の意思とは関係なく重い十字架を背負わされるのである。中には「仕方が無い」と思い諦念の境地に立つ人もいるだろう。だが望んでもいないのに「弱者」にカテゴライズされる事を良しとする人は、ワタクシから言わせれば意気地無しの負け犬か、あるいは人生を深く悟っている人かのどっちかである。

 みんな、昔のように「普通の人」として生きていきたいのである。特に若くして障害を負ってしまった人なんかがそうである。障害があることは認める。だがそれ以外は全くの正常だ。足りない分は何とかカバーしてやってみる。だから同じように社会の一員として扱ってくれ。「社会的弱者」として好意的にしろ悪意的にしろ高みから見下ろすのは止めてくれ。確信しているわけではないが、これが多くの障害を抱えた人達の声であると思う。

 最近「バリアフリー」という言葉が盛んに使われているが、ただ施すだけでは本当の意味でのバリアフリーではないと思う。上記で述べたように、施す側は悪意によるものは言うまでも無く、善意による差別を止める。そして施される側もただ施しををありがたく受け取るだけでなく、可能な限り受け取らず自力で得るように努力する。施す側と施される側、そのお互いが努力してこそ真のバリアフリーであると考える今日この頃であった。