アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

THE CRUCIBLE OF MAN: SOMETHING WICKED PART 2

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「学生時代に本を読まないのは勝手だけど、そのつけは全部自分が払うんだから。知識や教養は力じゃないと思っている奴はずいぶん増えたけど、結局無知なものはやっぱり無知ですからね。どんなに気が良くて、どんなに一生懸命でも、ものを知らないというのは、自分がどこにいるか知らないことですから」

By 宮崎駿


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*オー・ルージュの魅力

 スパ・フランコルシャン面白過ぎワロタ。コレが今回の【GT5ダウンロードコンテンツ】落とした一番の感想である。何ちゅーか、このコースが鈴鹿サーキットと並んで”最も人気のあるサーキット”と呼ばれるワケが良く分かるのである。高・中・低速と各種揃ったコーナーがどれもクセのある難しいコーナーだという事と、そのコーナーを上手く抜けたときの気持ち良さが尋常じゃない点である。口で言うのも難しいので、コース図と動画をアップするとしよう:

こーゆー時、ブログはホントに便利である、視覚(つまり文章)だけじゃ伝えきれない事でも、こーやって写真や映像や音を使って容易に説明できる。古い人に言わせれば「想像力が沸かなくなる」「自分の目と足で見に行こうという好奇心が無くなる」らしいのであるが、ンなモンはワタクシの知ったこっちゃない(笑)こうやれば「F1で最も有名なコーナー」と呼ばれるオー・ルージュ(写真の3−4−5の3連コーナー)の魅力が分かるってモンである:

ラ・スルス(第1コーナー)で出来るだけ早くアクセルを開け、脱出速度を出来るだけ高める

オー・ルージュに出来るだけ高い速度で突入し、最低限のロスで脱出する

たとえ僅かな速度差であっても、その後に控えてるケメル・ストレートでソレが何倍にも増える

ケメル・ストレート後のレ・コーム(第7コーナー)で、その僅かな差が決定的な差へと形を変える

つまりラ・スルス〜オー・ルージュ極々些細な積み重ねが、レ・コームで一気にフィーバーする

全てが上手く行った時の脳汁噴出量がハンパじゃい

(゚д゚)ウマー

というワケである。鈴鹿サーキットで言うトコの連続S字→デグナーや、スプーン→シケインと同じようなモンである。レ・コーム以降の第2区間も面白くて、アップダウン&カント付きの難しいコーナーが多数。ソレを4輪のグリップを上手く引き出して、出来るだけ高い速度で旋回する。やっぱり全部のコーナーを上手く抜けられた時の脳汁噴出量がハンパないのである。購入してもうすぐ1年のGT5であるが、まだまだ余裕で遊べそうである。


*若者の活字離れ

 何ちゅーか、若者が活字離れするのも分からなくはない。知りたい事を知るために、活字を読む必要性が少なくなったからである、図書館の本を1冊ずつ手にとって探さなくても、ネットで探せば容易に見つかるし、実際に見学に行かなくったって写真や動画が簡単に見つかる。無論、100%以上の”本質”を目指すのであれば今も昔も方法は変わらないのである→つまり100%以下でよければネット検索で十分なのである。ンでもって、今の日本は100%以下でも十分メシが食える。そりゃ若者が活字から離れるワケである┐('〜`)┌というワケで、活字は重要である。とはいってもワタクシの場合・・・

・・・活字と言っても、結局こうなってしまうのであるが(笑)何ちゅーか、実践できない知識を詰め込んでもすぐ忘れる&忙しくて実践するヒマが無い&ソレ以前に実践する気ナッシングなので(爆)結局ラノベに走ってしまうのである(^_^;)コレは外伝なのであるが、本編も外伝もあと1冊ずつでお終いっぽい。この作品のブッ飛んだギャグが大好きだった&ソレ以上にイラストが好きだっただけに(核爆)寂しい限りである(´・ω・`)

一言でいうと「イラストよければ全てよし」である(笑)ワタクシはアスペなんで、登場人物の微妙な心情を察するのが大の苦手なのである。だから純粋にストーリーが面白い作品か、斬新な視点から書いた作品や、イラストが良い作品を選んでしまうのである。中身の評価はまた次回って事で(爆)


*醍醐味は忘れかけた頃に

 とは言っても、マジメな本を読むのは今でも好きである。たとえメチャクチャ難解で、今現在は全く無用だと思われるソレも、将来はどう転ぶか分からんモンだからである。ワタクシがドストエフスキーの5大長編(「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「悪霊」「白痴」「未成年」)を本格的に凄いと思えるようになったのは、ソレを読破してから10年以上後のことだったからである:

大坊低学年時代、相当ヒマだったんで「読書しよう」って気になった

今までマトモな本読んでこなかったんで、一発奮起してドストエフスキーの長編を購入

読んでみたのはいいのであるが、話が長い上に内容が難解すぎる事に気付く(;´Д`)

でも貧乏な学生時代ゆえ「買ったなら元取らないと(`・ω・´)」と気合入れて、とりあえず読破

当然、大坊時代にゃ何の役にも立たなかったりする

卒業して社会人になると、人間ってヤツの理不尽さや不条理さをイヤと言うほど目の辺りにする

そんな人間が作る社会や政治や経済なんだから、当然の如く矛盾まみれ

理想と現実のギャップに翻弄される

( ゚Д゚)マズー

「こういうシチュエーション、どっかで体験した希ガス・・・( ̄〜 ̄;)」と思い起こす

ソレがドストエフスキーの著書の中にあった事であるのを思い出す

思い出すなり読み返すなりして、改めてその意味を再考察する

(暫定的な)答えを導き出す

(゚д゚)ウマー

・・・・ってワケである。巷で「読書は何の役にも立たない」とか言って読書を敬遠する人が少なくないらしいのであるが、ソレは単に「今は結果が出てないだけ」の話なのである。ある意味、読書の面白さというのはコレなんじゃないかなと思うのである。ピンチを昔読んだ本の知識で切り抜けるのは、オー・ルージュを上手く抜けたとき以上の脳汁噴出量である(笑)


 昔の作家ってのは、多分年取ってから「この世の真理」ってのを知ったのではないであろうか。世の中の真理を知ったのはいいが、年食った自分には世界を変えるための力は既に無くなってしまってる。だから本を書いたのである。自分の書いた本を読めば、若い読者が自分よりも早く”真理”を見つけるかも知れない。力のある若い内に”真理”を見つければ、その分早く行動できる。早く行動すれば、ひょっとしたら世の中が変わるかも知れない。そんな願いを込めて、作家は本を書いたのではないであろうか。ワタクシもそういう事してみたい気持ちは山々なのであるが、いかんぜん肝心の中身がある文章が書けない今日この頃であった。