ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m
「細道で犬に出会ったら、権利を主張して咬みつかれるよりも、犬に道を譲った方が賢明だ。たとえ犬を殺したとて、咬まれた傷は治らない」
By エイブラハム・リンカーン
といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。
*クリケットって何ですか?
インドで【インド版”巨人の星”の視聴率が好評らしい】のである。コレ見てワタクシが思ったのは「クリケットって名前はよく聞くけど、どんなスポーツだっけ?」という事である。実はサッカーに次ぐ世界第二位の競技人口を持つスポーツなのだが、その割にどんなスポーツなのか全然知らないのである(^_^;)こーゆー時、やっぱブログの便利さを感じるのである。文章だけだと限界がある&読み手の想像力にも限界はあるのだが、その限界を文章以外で克服できるからである:
文章だけよりかは大分マシだが、ソレでも全然分かりません、ハイ(笑)クリケットがイギリス連邦&元植民地以外に浸透しないのも、野球がアメリカと深い関係にある国々以外に浸透しないのも、こーゆー理由だからだと思うのである。即ち「スポーツの概要を一言で説明できない」である。その他のメジャースポーツならこの通りである:
- サッカー:手以外でボールを扱い、相手陣地のゴールにボールを入れれば勝ち
- バスケットボール、手だけでボールを扱い、相手陣地の籠にボールを投げ込めば勝ち
- モータースポーツ:コース内の決められた距離を一番速く走りぬけた乗り物の勝ち
- 陸上競技:一番速く走る、一番遠く/高く飛ぶ、一番遠くへ投げる
- ボクシング:手だけを使って相手を倒せば勝ち
こんな風に一言で説明できるのである。一言で説明できるって事は、即ちルールも簡単→誰でも観て楽しめる&実際やって楽しめるのである。だから上記のスポーツは世界中どこでも簡単に浸透するのである。その他「インフラ」「カネ」「場所」などいろんな要素があるが、野球とクリケットはどれとっても最悪である(笑)そりゃオリンピック競技から外されてもしゃーないって話である。
*体罰vs人権
前々から言っているが、ワタクシは体罰反対派である。理由は「ムダが多いから」である。体罰およびそのための監視や教育に使う労力に比べ、ソレによる恐怖政治から得られるリターンが少ないからである。軍隊だったら危険な道具を扱ってる&逃げる事は許されない→厳格な規律が何よりも重視されるから話は分かるのだが、こと勉学やスポーツにおいては積極さとイノベーションから得られるソレのが遥かに実入りが大きいため、体罰は効率が悪いからダメっちゅーのがワタクシの意見である。優しさ?思いやり?皆様はワタクシを誰だと思っているのであろうか(笑)ワタクシは「自分で自分を律する事が出来ないのなら、放っておくか切り捨てちゃえば良い」と考えているのであるが、世間はそうじゃないらしいのである。だから【生徒に舐められたり】だとか【生徒がアンタッチャブルな存在になったりする】のである。
ワタクシが思うに、コレは旧来の価値観と現在の価値観が衝突してるから起こるのである。ニッポンは何だかんだで儒教社会&農耕民族であり、現在においてもその価値観がデファクト上のルールとして生き続けている。でもその反面、ニッポンはキリスト教をベースにした人権思想と、狩猟民族的な新自由主義をデジュール上のルールとしている。この捻じれこそが体罰問題のキモにあるのである:
東洋的価値観:
- 年長者は年少者を指導する立場であり、年少者は年長者に指導される立場である
- 年長者の指導は自身の専門領域に留まらず、広く人生全般にまで及び、寧ろ広くあることが推奨される
- 年長者が「専門分野のコーチ」である以上に「人生全般の師匠」と化しているため、年少者に対する年長者の立場は絶対のものとなる
- 年長者は「人生の師匠」であるため、年少者は親子関係同様に権利や自由の一部を年長者に差し出さなければいけない
- 権利や自由を差し出した見返りとして、年少者は庇護を得られるのと同時に、降りかかる責任を回避できる
- 年長者は権利と自由を受け取る代償として、年少者を指導する責任が与えられ、年少者の至らなさは年長者の責任となる
つまりニッポンにおける学校の先生や部活のコーチってのは「勉強を教える人」である以上に「人生を教える人」でもあるのである。ニッポンで体罰が容認される風土があるのは、偏に「人生を教えてくれる見返り」としてなのである。ワタクシは「やる気のないヤツは体罰なんぞしなくても、落ちこぼれるがままにしておけばいい。ソレは教師の責任じゃないから」と思っているのであるが、ニッポンじゃソレはデファクト上教師の責任になっちゃうのである。反対に、西洋的価値観はこうである:
西洋的価値観:
- キリスト教の「神の前では皆平等」の教えの基に、基本的に年長者も年少者も権利は同じ
- 年長者の指導は自身の専門領域がメインである。専門外の事は自発的なモンであり、決して義務ではない
- 年少者が年長者を尊敬するとしたら、ソレは年長者が持つ経験や知識や実績に対して自発的に起こるモンである
- 権利や自由は基本ソイツのモンであり、ソイツがソレをどう使おうが尊重しなくてはならない
- 年長者の指導に従うかどうかは年少者次第であり、従わない権利を自身の責任において行使できる
- 従わない権利を行使した場合の責任は当然自分持ちであり、年長者や指導者の責任ではない
ココまで書けば、ワタクシの言わんとしていることが分かって頂けると思うのである。体罰問題の捻じれってのは、生徒に対する東洋的な価値からの人生指導の責任が降りかかってるのと同時に、西洋的な生徒の権利までも要求されているからである。本来ならどちらかを放棄するのが筋なのであるが、どっちも要求してるのである。でもって、生徒(&親)側は一切責任を問われない。取引条件や立場が不公平なんだから、そりゃ問題が拗れるに決まってるって話である┐( ̄ヘ ̄)┌
*二者択一
どうすれば健全化するか?ンなモン答えは「どっちか片方を選択する」しかないのである。この2つの考え方は根本的に水と油なんだから、混ぜ合わせるなんてムリな話である。今回の体罰問題を見れば分かると思うが、良いトコ取りをしようと思うと、必ず片方だけに負担が掛るからである。でもってワタクシは後者の西洋的価値観を選択する。無論問題は沢山ある(格差社会、弱肉強食社会、権利同士の衝突、価値観の乱立等々)が、その事を修正するチャンスや権利もあるからである。かのチャーチルが「民主主義はウンコだけど、他よっかはマシ」って言っていたのも、つまりこーゆー事だとワタクシは思うのである。結局の話、完璧なシステムなんて存在しないのであり、だとしたら最良のシステムとは「完全に正しいシステム」ではなく「間違いがあっても随時訂正していけるシステム」っていうのがワタクシの考えであり、ソレならば西洋式のソレが一番理に叶ってるのである。
無論ワタクシは「東洋式価値観は要らない」などという無粋な事を言うつもりはない。近代資本主義システムも何だかんだでマルクス主義を一部取り入れてるし、東洋的な価値観も然りだからである。ただソレは形式的な義務としてではなく、あくまで価値観の根底にある哲学を取り入れるといった感じにである。時代錯誤だの何だの言われてるけど、何千年も前から現代に至るまでその価値観が生きていて、何だかんだでソレなりの結果も出している。肝心なのは「何故生き残った&結果出してるのか」を抽出してアレンジして、マルクス主義みたく上手く取り込む事にあるのだと思うのであり、コレこそが多民族共存のカギだとワタクシは考えるのである。さて、堅い話ばかりしているとモニター前のロンマニアの皆様も集中力が途切れてしまう事必至なので(笑)ココら辺の切りの良いトコで終わらすに限る今日この頃であった。