アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

RUSSIAN ROULETTE

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山、もとの姿は、変わらざりけり」

By 山岡鉄舟


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*やっぱ素性は大事

 スポーツカーを選ぶ上で一番重要な事は何か。ココで「思い入れ」って書くと話が終わってしまうので、この答えは敢えて除外する次第である(笑)ソレに対するワタクシの答えは「素性の良さ」である。軽ければ軽いほど加速性能も減速性能も旋回性能も上がるし、重心が低ければ低いほどロールも少なくなるし足も必要以上に硬くしなくていいし、重量物が中央に寄ってれば寄ってる程アンダーもオーバーも出難いのである。ただ速くしたいだけならば、エンジンパワーを上げて&太いタイヤ履かせて&足をガチガチに固めれば出るのであるが、ソレは様々なデメリット(燃費の減少、維持費の増加、乗り心地の悪化など)と引き換えになってしまうのである。クルマの素性が良ければよいほど、こうしたデメリットを減らしつつ速く出来るのである。


 ワタクシがNDに乗るようになってからもう3年以上が立ったが、乗れば乗る程にこの「素性は大事」って事を思い知らされるのである。アンダーやオーバーが起こり難いし、起こっても簡単に立て直せる。だから気兼ねなくガンガン踏んでいけるし、ガンガン踏んでいけるからこそ楽しくなるのである。さて今年もあと10日を切ってしまったので:

一昨年と去年も参加した様に、今年も走り納めの為に【K-1スポーツ走行会】参加してきたワケである。特に今回は【機械式LSD】を導入して初めてのコース走行なので、ソレがどんな効果を示すのかを実体験できる良い機会なのである。


ちぃとばかし雲が濃いが、ワタクシが最も信頼してる天気予報サイトでは「降雨は18〜19時ごろ」と予想してるので、特段心配はしてなかったのである。







曇ってるけど雨は降ってないので、コンディションもこの通りドライである。


コースも向こう側にあるジムカーナ場でも、時期が時期だけに練習会を行ってたのである。


*考える事は皆同じ

 ビートたけし曰く「ニッポン人は待つ事が大好きな民族」らしいのである。曰く「よっ、待ってましたッ!」って言葉があるのはニッポン語だけで、他言語には無いんだそうである。待つって事は、よーするに人が大勢集まってるから待たされているのであり、待つのが好きって事は、ソレ即ち人が多いって事なのである。だから「ニッポン人は待つのが好き」というよりかは「ニッポン人はイベントをキッカケに大勢で集まるのが好き」って事なのではと思うのである:

年末に走り納めたいってのはワタクシだけでなく皆同じであり、今回もまた大勢が集まっていたのである。通常この走行会は2グループに分かれて20分枠を3回走るのであるが、今回は参加希望者が多かったため3グループの20分枠×2回になってしまったのである(^_^;)


筑波2000はニッポン屈指の有名サーキットだけあって、年末になると「今年の総決算だッ!」とばかりにこういったガチ勢が大勢やってくるのも毎年の光景である。


中にはこの様に、今やクラシックカーの仲間入りをしたような車両すらもあるのである。この型のランサーはワタクシが小坊低学年の頃にトーチャンが所有してた(多分トーチャンのはランタボじゃない)モンと同じ型だから、思わずあの頃の記憶がフラッシュバックしてきてしまったのである(笑)


ただやっぱ一番多いのは、ノーマルに足回り交換を施してホイールとタイヤを交換した、ライトチューンなエンジョイ勢である。気のせいか外車が増えてきた希ガスのだが、ソレはソレで良い事だとワタクシは思うのである。


そしてココにありとあらゆる定義の次元を超えた、カテゴライズできない至高の一台があったりするのである(笑)


*新兵器投入

 何つーか、何時の間にか筑波サーキットはワタクシのNDにとってのホームコースになってしまったのである。地元で家から1時間以内で着く場所にある、有名コースだから走行会も数多く開催されてて走り易いってのもあるけど、やっぱ筑波は1000も2000もサイズ的に丁度良いのである。1000コースは様々なコーナリングの練習として最適だし、2000コースはアクセルを床まで踏んでパワーを使い切る爽快感があって、共に楽しいのである。R35だと2000コースでもまだ小さいし、逆にNDでFSW本コース走ったら大き過ぎて大味で退屈になってしまう。だからNDは筑波の1000と2000、R35はFSWやもてぎの本コースという具合に住み分けると、この上なく丁度良く走れるのである。


 ND乗るようになってから再び筑波を走るようになってもう2年ほど、今じゃもうナビ無しでも家から筑波サーキットまで行けるし、コースも身体で覚えるようにもなってきたのである。だからこそ、新兵器の投入にもピッタリなのである:

何せサーキットで実際に使うのはコレが初めてなので、色々とデータを取る必要があるのである。課題のコーナー立ち上がりで従来あった空転を無くす事が出来るのか、20分フルで走って具合はどうなのか、どういう風に使えば上手く効かせられるのか、メンテサイクルはどうするのか等々。使ってみないと分からん事が色々と多いので、今回は使ってみるチャンスでもあるのである。


あとは地味だけど、アライメントを若干見直したのである。機械式LSD組む際にどうしても足回りを一旦外さなきゃならない→アライメントを取り直す必要があるため、序に最適化してもらったのである。さて早速動画を・・・と言いたいトコであるが、当然だけど出来上がってないのである(笑)さて走ってきて思いの外疲れているので、コレぐらいにしておこうと思う今日この頃であった。


METAL HEART

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「政治がてきぱきと仕事をこなしていたら、それは独裁政治だ」

By ハリー・トルーマン


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*冬のオープンカー

 昔読んだ本に「欧米が南国に比べて発展してるのは、欧米は寒いから」って書いてあったのである。分り易く言うと、寒くても厚着すれば仕事はできるけど、暑かったらそうはいかない→南国の人々が暑さを避けて昼寝してる時にも欧米の人々は働いてたから、その差が積み重なって欧米のが発展したって理論である。同じ事がオープンカーにも言えるのであり(笑)実は冬の方が夏よりも屋根を開けてられるのである。今時のオープンカーってのは屋根開けた時の走行風の流れもちゃんと風洞実験で研究し尽くしていて、屋根を開けても窓を全閉にしていれば走行風はコクピット内に余り入ってこないのである。そりゃ屋根開けてる時に走行風がコクピット内にバンバン入ってきたら埃が目に入ってしまうんだから、当然っちゃ当然である。



 だから窓を全閉にしてエアコンを強めにすると、走行風に余り冷やされずコクピット内だけを温める事が出来るのである。流石に完全に走行風を防ぐことは出来ない&どうしても上半身は冷えてしまうので、厚着と手袋とニットをしとくとモアベターである。因みにワタクシが色々試した結論は「晴天時限定で8℃までなら屋根開けてられる」といったトコである(笑)ソレ以下だと暖房をガンガン効かせてもしんどくなるし、何より取説に「幌が傷むから5℃以下では開け閉めするな」って書いてあるので、我慢できたとしてもソコら辺が限度なのである(^_^;)思った以上に快適なので、オープンカー属性のあるロンマニアの皆様は恥ずかしがらずにガンガン屋根を開けていこうジャマイカ(爆)


*政治を上手く語る方法

 何が正しいかなんてのは国籍や民族や家族レベルどころか個人レベルでも多少なりと違うのに、ソレを信じるヤツはソレこそが絶対普遍の真理だと信じて疑わない。巷で「政治と野球と宗教の話はするな」って言われる理由が正にソレであり、自らを「和の民族」と称するニッポン人が(政治家や評論家以外で)公の場で政治の話をしない理由もソレである。正反対の主張を持つヤツとは揉める可能性が高い事と、絶対的な正解が無いが故に揉めると限が無くなる事を分かっていれば、必要も無いのに政治の話をするのは時間と労力のムダ以外の何でもない事が賢い人間ならば分かる筈である。だから辺り構わず政治の話をするヤツの相場は決まっている。ソレが分からないバカなヤツである。


 コレが最近世間を騒がせている【某モデルが政治的発言をしてどうのこうの】ってのに対するワタクシの回答である。政治的発言はタブーなのではなく、政治的発言をするTPOがシビアだという事なのであり、このタレントはそのTPOを思いっきり間違えている事が問題なのである。政治的発言ってのは上記の危険性があるが故に、言うタイミングを間違うとこうなってしまうのである:

巷では「ビートたけし松本人志つるの剛士は政治的発言をしても叩かれないのに、何故?」って声もあるが、何故叩かれないかって、TPOを弁えた上で発言してるからである。あと更に付け加えれば「その発言に至るまで、どれぐらいの経験の積み重ねと熟考が成されたか」も政治発言をする上で重要なのである。このモデルや村本某の何がダメかって、この経験の積み重ねと熟考が殆ど全く感じられないからである。


 そういう他人や社会に対する忖度が、政治的発言のTPOを弁えるって事なのである。でもソレが分からんバカが「タブーを破った私カッコ良い」とか「皆が政治に無関心な中、若い子が政治的発言をするのは素晴らしい」とか「政治的発言が叩かれるのは、彼/彼女の勇気に皆が嫉妬したから」とかいう勘違いをして、底の浅い政治的発言をアホみたいに歓迎するのである┐(´д`)┌断言しても良いが、そういう連中は正反対の主張を持つヤツとの果て無き論争を戦う覚悟なんて全く無い。自分が絶対的に正しいと信じて疑わないから相反する人等を「お前らは悪だッ!悪に人権など無いッ!」容赦なく攻撃するし、やり返されたら「言論弾圧だッ!表現の自由を尊重しろッ!」ってなるだろうから、やっぱ実害が無い限りスルーするのが吉なのである。


*したい事をするのではなく、しちゃいけない事をしない

 こう書くと「ソレがどうしたッ!誰が何を考えてどう喋ろうが勝手だろッ!言論の自由だッ!」っと言われるかも知れないが、ワタクシはソレに対し「じゃあ貴方の自由の行使をボロクソ扱き下ろして嘲笑したとしても、ソレもワタクシの言論の自由ですよね」って答える次第である。でもってこう答えると、大概の場合エンドレスな口論が始まるのである(笑)でもって本題の議論を堂々巡りするか、揚げ足取りや人格攻撃に移行するか、話題が逸れに逸れまくって何の話をしてたのかを忘れてしまうかになってしまい、結局時間のムダに終わってしまうのである。古人曰く「雨降って地固まる」との事であるが、ソレは賢者同士の場合に限るのであり、圧倒的大多数は「雨降って土砂崩れ」なのである(爆)


 だからワタクシは基本的に議論はしないし、政治や宗教が絡むなら尚更したくないのである。こういうのはモヤモヤしたまま終わってしまうか、リアルファイトに展開してしまうかの2通りの結末しかないのである。上記のサブタイはワタクシが自由について思うソレであるが、言論の自由にも同じ事が言えるのである。つまり「言論の自由とは、言いたい事を言うことではなく、言っちゃいけない事を言わないこと」がワタクシの言論の自由に関する見解である。言いたい事を何でも言って良いのなら、相手に対する侮辱や暴言もソレに含まれるのであり、ソレはどちらか片方の滅亡を以てしか終わり得ないのである。完全な自由など存在せず、あるのは最大公約数の自由だけ。改めてそう思う今日この頃であった。


BALLS TO THE WALL

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「他人と違うことが許されないとは、自由の特権を失うということだ」

By チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*一般社会の本音

 人間というナマモノは肉体的にだけでなく精神的にも免疫機構を持っており、基本的に自分とその家族以外の他人を受け入れられない。だから共通ルールとしての法律が必要となるし、法律に実行力を与えるために警察や軍隊や裁判所が必要となるのである。だから【虚業化した障害者雇用をどう変えるか】って記事を読んだ時も、ワタクシ自身は余り驚かなかったのである。健常者同士でも派閥争いやら何やらがあるんだから、健常者と障害者なら尚更である。そう、思いっきりぶっちゃけた事を言えば、健常者社会は本気の本気で障害者を受け入れてるワケではないのである。ルールで定められてるから、破ったらデメリットがあるから、障害者向けの雇用を作ってるのであって、ハナッから戦力だとは思ってないからこそ、障害者雇用がこうなってしまうワケである。



 ただワタクシは、こういった現実は排除すべきモンではないと思うのである。そういう現実を受け止めて「じゃあ戦力として受け入れられるためにはどうすれば良いのか」を現実的かつ具体的に考える事こそが、この問題の解決になると思うのである。ただ単に「障害者を雇ってないッ!マトモな仕事をさせてないッ!」って叩いて、健常者側に更なる譲歩を迫るだけじゃダメなのである。別の抜け道を見つけ出されたり、隠し方が更に巧妙になったり、結局は何も変わらんのである。ソレをまた別口で発見され、発見されたらまた別の方法で逃れたり隠したり、果てしないイタチごっこが始まるだけの事である。だからこそ「どうすれば戦力になって、向こうから積極的に欲しくなるようにするか」を考える必要があるのである。


トランスミッションっぱなし

 何故こういう風に企業や行政に対する一方的な配慮の押し付けが罷り通ってしまうかって、障害者側の企業や行政に対する今までの恨み辛みがあるって事と、ソレ以外の人々が社会や行政に対するルサンチマンを叶えるために便乗しているからだと思うのである。そうすると当然、企業や行政が一方的に悪者にされて、企業や行政側もソレに対抗して色々やって、その悪循環に入ってしまうのである。さて話は変わって、と:

トランスミッションは決定的な答えは未だ見つからないけど、最近では「MT=下〜中級グレード車向け」「DCT=中〜上級スポーツカー向け」「AT=ソレ以外」ってな具合に、クルマのジャンル毎に住み分けできてしまってるって感じである。CVT?ロンマニアの方ならば「唯一の良いCVTは廃棄処分されるCVT」が座右の銘になってる筈である(笑)EVの普及までまだ当分時間がかかりそうなので、今後もトランスミッション付きのクルマには乗り続ける事となるであろう。


ワタクシも愛用してる【散弾工房】製ショットガンのエピソードが載ったヤツが、遂に4巻にて収録されているのである。その事について詳しく描かれているので、興味のある方は読んでみる事をオススメする次第である。因みにワタクシは作者を知っていて、この前のイベントで散弾工房に「主人公に似合うショットガンを作ってくれ」っていう物凄いオーダーをしてたのを直に目撃してしまってるので(笑)ひょっとしたら今後の作品にソレが反映されるかも知れないのである。


*あるべき支援の姿

 話を元に戻して、一方的に強い側に譲歩を求める姿勢ってのも理解できないではないのである。そういう人達って要するに、平等な社会ではなく、公平な社会を目指しているのである。分り易くイラストにするとこんな感じである:

障害者雇用云々に限らず左派的な考え方を支持する人の基本的な考え方が、この図の右にある"Equity(公平)"なのである。強い側や豊かな側が余った部分を弱い側や貧しい側に与える事により最大公約数の幸せが得られるのだから、強者や金持ちは我慢して譲りやがれって発想である。よくある「金持ちに課税しろ」とか「企業の内部留保を吐き出させろ」もコレの亜種である。


 が、大きな問題が一つある。ソレは「自分のモンを差し出すのは決して気持ちの良いモンではない」って事である。だから「皆の幸せの為なんだから箱よこしやがれカス」みたいな態度を取られると、火に油を注ぐ形になってしまうのである。だから互いを尊重し合って、どうすれば気持ち良く箱を譲ってもらえるかを考える必要があるってのがワタクシの提案なのである。でもって、この手の問題の最適解の一つがコレであろう:

そう、既存のシステムを改革して障壁を無くしてしまえれば、箱も必要無いから一方的に譲る必要もなく、全員が満足できるって考え方である。考えうるとしたら手厚いベーシックインカムなんだろうけど、ソレを実際に出来るようになる為には克服しなきゃならないハードルが余りにも多いのである。理想とは、目の前の現実を一つずつコツコツと片付けていった者が、気が付いたら既に達成していたモン。改めてそう思う今日この頃であった。


RESTLESS AND WILD

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「自分の限界を知る者こそ自由な者である。自分を自由だと妄想する者は、その妄想の奴隷である」

By フランツ・グリルパルツァー


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*気が付いたら270周年記念

 12月中旬といえば、ニッポンでは恒例の忠臣蔵の日である。忠臣蔵の初演が1748年だから、気が付いたら今年で270周年だったりするのである。でもってこの物語に関するワタクシの感想は昔から今に至るまで「何が良いのかサッパリ分からん(゚∞゚)」であり、ソレは今後も変わらんだろうと思うのである。だってあの事件で一番悪い人間は誰であろうか?吉良上野介?何をどう考えたって、公の場で逆ギレかましてドスを振り回したヤツに決まってるのである(笑)ソイツが上手く立ち回っていれば、ソイツが堪えるべきトコで堪えてさえいれば、テメェとテメェの部下47人と吉良(及びその部下)はムダ死にしないで済んだのである。だからワタクシがあの物語から得た教訓は「アホがトップだとしたが色々苦労する」ってトコである(爆)




 ワタクシは別に自己犠牲だとか公共精神だとか滅びの美学だとか判官贔屓だとか勧善懲悪だとか、そういったこの物語に含まれている美点諸々を否定する気は毛頭無いのである。ただ単に、ソレはワタクシの美学とは合わないってだけの話である。ワタクシは合理的でドライな現実主義者なので、この物語の様々なやり方は「効率が悪過ぎるにも程があるじゃん('A`)」って感じてしまうのである(笑)その忠臣蔵的な美点を突き詰めたらどうなったかって言ったら、第二次世界大戦のソレになったからである。こういうのの何がワタクシ的にダメかって、内向きな自己満足で全て終わってしまうからである。ニッポンの鎖国が続いていればソレでも良かったんだろうけど、残念な事に今はネット全盛期のグローバル時代だからである。


リバタリアンという生き方

 ワタクシはこの様にニッポン古来の思想が合わないっちゃ合わないのであるが、かと言ってワタクシはリベラルではないし、サヨクでは尚更ない。じゃあ保守なのかといわれたら決してそうではないし、ましてやネトウヨでもない。ワタクシをリアルで知っているロンマニアの方ならば、ワタクシがネトウヨにはなれない事は良く分かる筈である。ワタクシはどちらかというとリバタリアン、つまり新自由主義者である。考え方は右派のソレに近いけど、右派の様に伝統的な価値観に拘るトコが無いって感じである。だから移民に関しても水道民営化に関しても(ソレが的確にコントロールされた場合に限り)賛成だし、表現規制だとか言論の自由に関しても(他者の主権を侵害しない限り)反対って立場である。


 よーするに「政府や社会は人が伸び伸びと才能を発揮できる場を用意する事が最大の使命であり、政府や社会は人々が自由に試行錯誤する機会を妨害すべきではない」がワタクシの政治スタンスである。ワタクシが集団的自衛権や日米同盟に肯定的なのも、つまりそういう事である。同じ自由主義を信奉する国々と一緒になった方が、より自由が守られ易いからである:

無論、ガチの新自由主義を導入するとアメリカで今起こってるように格差がガッツリと生まれるので、その部分の修正の為に保護主義的な考え方を導入するのはアリだと思ってる次第である。が、基本的な考えは「社会や行政は何もしなくていい、自己責任でおk」なので、やはり慣れてきたらもっと自由が欲しいってのが正直な感想である。


 まぁ何ちゅーか、ワタクシは”普遍的な価値観”ってのを信じていないのである。この世に宗教が複数あるのと同様、正義や正解なんてモンは地方や民族や宗教によって各々違うし、各論で言えば人間個々で違うモンなのである。右派のソレでも左派のソレでも、何らかの”普遍的な価値観”を持つって事は、ソレ即ち持たないモンを排除するって事に繋がるからである。だから平和に生きていくためには、互いに違うままで(相手の主権を侵害しないのを前提に)好きなように各々の価値観を追求していく事だと思うのである。だから右でも左でもなく、リバタリアニズムをワタクシは選んだのである。ワタクシは生粋の変人なんで、そういう自由が無いとマジで色々ヤバいのである(笑)


*障害者もフェラーリ乗れる

 サブタイのソレこそが、ワタクシが理想とする社会の在り方である(笑)障害者であってもアウトサイダーであっても自由に才能を伸ばす環境があり、その中でチャンスをモノにできる、そういう社会である。そう考えると、右でも左でもその願いは叶えられんのである。右派につくと伝統的な価値観が優先され、そうすると伝統に無い存在であったワタクシ等発達障害者に居場所は非常に限られたモンになってしまうのである。じゃあ左派につけば良いじゃんと思いがちであるが、左派になると再分配が盛んにおこなわれるであろうから、クルマ乗れるにしても皆で仲良くワゴンRとかN-BOXとかになってしまうのである(爆)障害者でも一発当てられる機会があるとしたら、やっぱ新自由主義社会の中だと思うのである。



 まぁまだ気の早い話だろうけど、ワタクシはそういう時代は何時か必ずやってくると思うのである。刺身にタンポポ乗っけるだけの「一応仕事してます、社会参加しています」なアリバイを作る為だけの超単純作業だけじゃなく、障害者の人達が健常者の人達に混じって重要なプロジェクトをこなすようになる、そんな未来をワタクシは望んでるし、そうあるべきだと考えているのである。確かに「一部の環境や魅力や運に恵まれた人だけが云々」って批判もあるだろうけど、でもそういう成功者が居るのと居ないのでは雲泥の差があるのである。そういう人が居るだけで「私もああなりたいッ!」って思う人が増えて、界隈にダイナミズムが生まれるのである。さてネタ切れを誤魔化す事が難しくなったので(笑)お暇させて貰うとする今日この頃であった。


BREAKER

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「私は、あなたの期待に添うためにこの世にいるのではない。また、あなたも私の期待に添うためにこの世にいるのではない」

By ブルース・リー


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*来年最もホットな国産車

 スポーツカーが高くて買えない、最近の人は皆そう言うのである。が、よくよく考えてみたら、スポーツカー(特にプラットフォーム共有の無いピュアスポーツカー)は高くて買い難いのが当たり前なのである。何故今までスポーツカーが安く買えたかって、バブル前後のニッポンの景気が異常だったからである。そのバブルが終わってしまった今、他の欧米諸国と同様の状態になっただけなのである。86/BRZの開発主任で、今は新型スープラの開発主任やってる多田哲哉氏も「この新型スープラが一般庶民が気軽に買える最後のスポーツカーになるかも知れない」と言ってるんだから、やっぱ古き良きあの時代はもう終わるんだなぁって実感させられるのである(´・ω・`)コレからのスポーツカーは金持ちか、或いは熱心なクルマ好きの為だけの乗り物となるであろう。



 デザインに関して言えば、ワタクシの感想は「中々悪くない」ってトコである。あとは全身像を見たいのと、走りがどうなのかを知りたいのと、あとBMWのMシリーズ相当のグレード(トヨタだとGRMNかな)があるのかどうか。ワタクシが知りたいのはこの3点についてである。クルマは写真で見るのと実際目で見るのとは違うのと、走らせてみたら感想がガラリと変わる事がザラなのと、BMWのMシリーズは素とは全く別モンのクルマになる(エンジンも大幅パワーアップしてミッションもDCTに変わる)からである。いずれにせよ来年のクルマ好きの話題の中心はこの新型スープラになる事は請け合いナシなので、来年は色々と楽しみにさせてもらう次第である。当然、試乗ネタもブッ込む予定である(笑)


*年末が故にネタ切れ

 ただ今のクルマ界を鑑みると、今後スープラみたいなピュアスポーツカーを安くゲットできる時代は終わるんじゃないかと思うのである。ピュアスポーツカーは金持ちか熱心なクルマ好きだけのモンになり、ソレ以外の人はスイスポシビックTypeRやWRX-STIみたいなエボリューションモデルに乗る、そんな時代が来るのであろう。さて、サブタイで示してるように、今日はココまでである(笑)


アスペルガー医師ロンのど〜でもいい話・その154:嘘つき同盟

「嘘つき同盟」なる組織の存在を知った男が、話の種にと参加してみる事にした
一週間後、男に以下のような手紙が届いた


「親愛なる嘘つき紳士へ
 嘘つきコンベンションを開催しますので
 以下の日時、場所に集合してください」


男は1時間かけて身なりを整えクルマをきれいにした
そして、意気揚々と目的の場所に向かった


結局、コンベンションは開催されなかった


アスペルガー医師ロンのど〜でもいい話・その155:ラッキー7

77年7月7日に7男として生れた男が
7年ぶりに7丁目の競馬場に行き
7レースの7番の馬に777円賭けた


結果:7着だった


アスペルガー医師ロンのど〜でもいい話・その156:ボケ防止

昨日じいちゃんが「ボケ防止の為の本」ってタイトルの本を買ってきた。


今日も買ってきた


アスペルガー医師ロンのど〜でもいい話・その157:体重計

太った婦人がデパートで体重計を選んでいると、最新式と宣伝されている製品が目に留まった
どう見ても普通の体重計だったので、彼女は店員に説明を求めた


「この体重計のどこが最新式なんですの?」
「はい奥様、実はこの体重計、量った体重を音声で教えてくれるんです」
「まあ、そんなの恥ずかしくて嫌だわ」


「ご安心下さい。この体重計は男性と女性を自動的に判別して、女性の方が
 お乗りになった場合には、少し控えめに体重を告げる仕組みになっております」
その言葉を聞いた婦人は安心し、その製品を買うことに決めた


だが、かなり高価だったこともあり、一度試してからにしたいと申し出た
「はい、ご遠慮なく」
店員がそういって体重計を準備するのを待ち、婦人はハイヒールを脱いで、そっと体重計に乗った
やがて計測が済み、穏やかな人工音声が響いた


「この装置は一人用です...」


・・・といった今日この頃であった。


I’M A REBEL

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「人間が自己の敵対者の長所を認めるとき以上に大きな利益はめったにない。このことが彼に、敵対者に対する明確な優越を与える」

By ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*私はお前(達)よりも優れている

 上記のサブタイこそが、菜食主義だとかフェミニズムだとか環境保護だとかサヨクだとか動物愛護といった活動に過度に夢中になるヤツの根底にある感情である。見た目や頭や性格やセンスが悪いが故に一般社会ではモテなかったり出世できなかったり、或いは行き過ぎて嫌われたり虐められたりしたヤツが、上手く行ったり成功したり人等の粗を探すためにこうした活動に飛びついて、そして「こんな重要な事を疎かにする連中は愚かなんだッ!カネや地位や権力よりもずっと尊いモンを追求する私の方が偉いんだッ!」っていうルサンチマンによる精神勝利法で優越感を得るのである。だから連中はテメェ等に賛同しないor関心が無い人を見下しているし、そういう人等の意見は尊重せずにテメェの意見を押し付けてくるのである。


 そういう「皆が関心を抱かない政治に関心を抱く私は偉いッ!」って優越感があるからこそ、音楽やら漫才やらに政治要素を入れただけで「やっぱ私等は偉いッ!」って思い上がって、一番肝心な「ソレが面白いか否か」を忘れてしまうのである。そう、政治要素を入れる事が問題なのではなく、そのネタが面白くない事が問題なのである。政治ネタを入れてウケを狙うってのは相当なセンスを要するのだけど、ソレが分かってないヤツが実に多いのである┐(´-`)┌

単純に面白くないからウケなかっただけなのに、ソレを「何も考えないヤツ等には政治ネタは難し過ぎたかな(´ー`)」とか「ニッポンは遅れてるから政治ネタはウケない」とか勘違いしてるから、色々とややこしくなるのである。政治思想ってのは人其々違うモンであり、相対的なモンであるが故に正解は無いのであるが、でもソレを固く信じてるヤツはソレこそが絶対的な正解だと思い込んでしまうのである。だからこそ賢い人は政治ネタを敢えて言わないのであるが、バカなヤツはソレが分かっていないのである┐(´д`)┌


*過去を変えてはいけない

 ネットが無かった昔なら各地の少数グループにバラけてて微々たる力しかなかったこの手の連中が、SNS時代の今は安易に国境やジャンルを超えてルサンチマン者同士の連帯を組めるようになったから厄介である( ̄〜 ̄)言ってる事は非生産的なルサンチマン以外の何でもないのだが、数が揃うとカネも力も集まる様になり、そのカネと力を目当てに狡賢いヤツがソレに便乗して火に油を更に注ぐのである。だからこの【Netflix版聖闘士星矢でアンドロメダ瞬が女性化】もその影響だと思ってるのである。下らない事でもネットで拡散して大規模デモの呼びかけやボイコット運動の呼びかけも出来るし、権力者を叩きたいだけの他ジャンルのヤツも便乗するし、サヨク政治家がコレに乗っかって票を伸ばそうとする。所謂ルサンチマンによる数の暴力ってヤツである。



 コレに関するワタクシの見解は「全く新しいキャラクターでの新シリーズなら女性もアリだけど、オリジナルのキャラを使うのなら設定は原作に忠実に」ってトコである。未来は自由に作る事が出来るし、そうあるべきだとワタクシも考えるが、過去に余計な改変は要らないのである。分り易く言えば、第二次世界大戦モノの映画に女性兵士が出てきてたり、18世紀アメリカを舞台にした作品から黒人奴隷を無くすようなモンなのである。確かに現代の価値観にはそぐわないかも知れないが、あの当時はソレが当たり前だったのであり、その事実を否定する事は出来ない&すべきではないからである。寧ろ視聴者に「昔は何故そうだったのか?」を考えさせる事こそが正しい歴史教育だとワタクシは思うのである。


 まぁ作品に関しての「ギリシャ神話のアテナは嫉妬深い女神だった事が”聖闘士=原則的に全員男性”の元ネタになってる」とか「女性の聖闘士は仮面しなきゃならないんだけどソコんトコどーすんの」とかいった作品設定の矛盾に関するソレはファン達が十分過ぎるほどやってるので、ワタクシから敢えて言い足す事は無い次第である。一時的なルサンチマンに流される形で、昔の表現から得られる教訓を抹殺してしまう、ソレがこの問題のバカバカしさの本質なのである:

この様に新しいシリーズでは敵味方共に女性キャラがちゃんと居るんだから、ソレで良いんじゃないかとワタクシは思うのである。人間というナマモノの歴史は「何故昔はこうだったのか?」から始まって「じゃあ今はどうなのか?」を考え、ソコから「未来はどうするのがベターなのか」を考える事の繰り返しなのであり、過去はそのままでなければベターな現在も未来も生まれないのである。都合の悪い過去を無くすだけじゃ、良い未来は築けないのである。


*ノーモア逆差別

 でもってワタクシ的に、この手の男女平等云々に関して思う事が一つだけあるのである。ソレは「”女性差別ガー”は聞いた事があっても”男性差別ガー”は聞いた事が無い」って事である。男性ばかりのソレに「女性が居ない」って怒るんだったら、その反対に女性ばかりのソレにも「男性が居ない」ってクレームをつけるべきだと思うんだけど、そういうニュースは一度たりとして聞いた事が無いのである:

例えばガルパンみたいな作品に対しても、本来ならジェンダー云々な人が「女性ばかりで男性が一切居ないのは差別だッ!男性も入れろッ!」って言い出すんだったら、ワタクシも「筋を通すんだねこの人等w( ̄o ̄)w」って感服して主張を聞いてやらん事も無いのであるが(笑)そんな話は一度も聞いた事が無いのである。だからワタクシはこの手の連中の言い分には耳を貸さないのである。


 先日も述べたと思うが、差別に逆差別をぶつけたって、差別は決して相殺されないのである。そんな事したら被差別感情が互いに生まれるだけであり、更に深い遺恨を残して溝が更に深まるだけだからである。でもルサンチマンを数の力で正当化する事で突き動かされてる連中は、そういった懸念もまた数の力で押し通そうとしてるのである(-_-)ワタクシは別に、ジェンダーだとか環境だとか言論の自由だとか、そういった運動に反対する気は全く無いし、寧ろやり方が正しいのであればドンドンやるべきである。が、ルサンチマンに踊らされた上でソレをやる事には大反対なのである。帝国主義テロリズムよりも、人類はルサンチマンを根絶させるために戦うべし。そう願ってやまない今日この頃であった。


THE ARROW OF SATAN IS DRAWN

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「男女の関係に平和はない。人間関係には平和は少ない。平和を求めるなら、孤独を求めるに限る」

By 坂口安吾


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*差異は差別に非ず

 今気が付いたのであるが、来年は女子サッカーのワールドカップが開催されるんだそうである。女子サッカーといえば7年前、ニッポンが優勝して大盛り上がりだったのを今でも思い出すのである。何せ今まで「ニッポンがワールドカップに優勝するなんてキャプテン翼の中だけの話だろm9(^Д^)」って思っていたのが、女子とはいえマジで優勝しちゃったんで、そりゃ驚かない方が難しいってモンである(笑)

この頃ワタクシは「こりゃ来年以降、女子サッカーが盛り上がるな( ̄∇ ̄)」と予言していたのであるが、流石のワタクシも予言を外す事があるんだって事を身を以って知った次第である(笑)まぁただ今年の男子ワールドカップを見た限り、ニッポンにサッカー文化は確実に根付いたと見て差し支えないので、今後も期待は出来ると思うのである。


 じゃあ世界一にもなったなでしこジャパンであるが、男子サッカーと比べるとどうなのかって話である。流石にJ1はムリでも、J2なら?J3なら?その問いに対する答えは「高校サッカー部にも負ける」である。国見とか市立船橋とか東福岡みたいなサッカー強豪校ではなく、香川西高に2-0で負けたのである(^_^;)あと蛇足だけど、U-14ニッポン代表にも7-0で負けているのである。残念な話だけど、コレが男子と女子の身体能力の違いなのである。あとテニス属性のあるロンマニアの方に「全盛期のセリーナ・ウィリアムズが男子の世界で勝負したら、ランキング何位まで行けそう?」って聞いたら、答えは「多分60〜70位ぐらい、上手く行って50位台」との事である。だからこそスポーツは男女に分かれているし、分かれているべきなのである。


*同情はするが賛同はしない

 上記の前置きこそが、ワタクシの【性転換の元男子代表が女子で2度目世界選手権切符】に対するワタクシの答えである。コレの何が問題って、性転換したヤツの体格が、明らかに女性じゃ逆立ちしても届かないような体格のソレで、著しく公平さを欠いてるってトコにあるのである。確かに性同一性障害の苦しみには同情するし、性転換後の競技出場ガイドラインも満たしているから、試合に出る分には何ら問題は無いのであろう。が、コレを認めてしまったら、スポーツが男女に分かれている意義がなくなってしまう事になるのである。男女に分かれている意義がなくなるのもだけど、ワタクシが一番懸念してるのは「この方法を悪用されないか」という事である。スポーツでの勝利ってのは、思った以上に価値が高いからである。



 今回幸運(?)だったのは、コレがハンドボールというマイナー競技での話である事と、ハンドボールがチーム競技だという事と、ハンドボールがアマチュア競技であるという事である。ハンドボール関係者には大変失礼な話であるが、ハンドボール界でコイツが無双したとしても、スポーツ界に及ぼす影響は少ない事が考えられるからである。コレがもしメジャーな個人競技だったら、マジでシャレにならない事になる可能性があるからである。コレがメジャーなプロ化された個人競技なら、この制度を悪用して、男子界じゃパッとしないヤツが性転換して女子界で無双して稼ぎまくる。猫ひろしカンボジア帰化してオリンピックに出たのと同じやり方で、男が性転換して女子スポーツに入ってくるかもしれないのである。


 ハンドボールじゃ大して(てゆーか全然)稼げんから「まぁ、コイツが引退するまで待つか( ̄▽ ̄;)」で済むが、コレが女子でも大金を稼げるテニスだとかゴルフとかだったらどうするんだって話である。上記にも書いたように、全盛期のセリーナ・ウィリアムズでも60〜70位ぐらいなんだから、ソレ以上のランクの男子選手が性転換して女子テニス界に入ってきたら、そりゃシャレにならない事になるのである:

勝つ為だけにそんな簡単に性転換するのかって?そう思うのであれば、貴方は男を分かっていないと言えるのである(笑)男ってのは人生懸けられるデカい目標ができたならば、いとも簡単に悪魔に魂を売れちゃうモンなのである。特にプロスポーツってのは一部のトップとその他の格差が激しいのだから、トップになれないヤツが「女になればトップになれるかも(`∀´;)」なんて野心を抱いたとしても不思議ではないのである。某ロンマニアの方が「やっぱ選手はDNAで男子か女子かを決めた方が良くね?」と言ってたのであるが、ワタクシもそう思う次第である。


*必要なのは脱ルサンチマン

 結局ジェンダー云々、LGBTが云々の難しいトコは何かって、ソコにルサンチマンが介在する事である。こういう類の運動を始める人って、その多くが過去にその手の差別や迫害などを受けていて、ソレに対する怨嗟や嫉妬が多かれ少なかれあるのである。田嶋陽子みたいにその怨嗟や嫉妬をそのまま吐き出すヤツも居れば、ルサンチマンという形で吐き出してくるヤツも居て、厄介なのは後者の方である。たとえ女性の社会進出や性少数派の権利向上に興味が全く無くても、その運動が持つ「強者を正論で思いっきりブッ叩く」という趣旨に賛同して便乗したり、影響力のある狡賢いヤツが便乗して更に問題をややこしくしてくる。この問題に限らず、様々な社会問題で見てきた光景である。


 でもってコレはワタクシが以前から繰り返し述べてきてる事であるが、差別に逆差別をぶつけたって相殺されないのである。逆差別された事により差別した側にも遺恨が残り、相殺されるどころか相乗効果が生まれてしまい、ただでさえ大きい溝が更に大きく深くなるだけだからである。ソレで上手く行く事があるにしても、ソレは形だけ上手く行ってるに過ぎず、決して本質的な解決は望めないのである:

だから昔に色々あったとしても、ソレを全て一旦チャラにして、ソコから未来だけを見てジックリ話し合う必要があるのである。過去はもう何をどうやっても元に戻らないし、百歩譲って復讐したとしてもプラスマイナスゼロには決してならないのである。どんな形であれ一度抗争を始めたら、どっちかが滅ぶまで遺恨は決して消えないのである。和平はできても、平和には決してならない。だからこそ全てを一旦チャラにする必要があるのである。さてもう遅いので、コレぐらいにしておこうと思う今日この頃であった。