アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

闘病生活の始まり

 その後診察結果を持って同出張病院を訪れました。一緒に働いていた他の7人の医局員の反応はと言うと、”何もなし”でした。今まで散々「お前は信用できない」「ダメな奴だ」「太り過ぎているから疲れて眠くなるんだ」「用が無いならさっさと帰れ」と言っていたくせに、診断結果が出たとたんダンマリ。こちらから話しかけても当たり障りの無い会話に終止。はっきり言って幻滅しました。

 別にワタクシは「謝れ」と言っている訳ではないのです。実際、私自身を含めてこれが病気だとは誰一人知らなかったわけですし、上司が部下に頭を下げるという事が日本の文化上難しいことも分かっています。ただ、わざとであったとしてもそうでなかったにしろ、ナルコレプシーを知っていても知っていなくても、あれだけの言葉をワタクシに向かって吐いたのですから、せめて何か言ったらどうだというのがワタクシの正直な気持ちです。

 医師が7人もいる中で、それに答えてくれたのは医局長のT先生と、同じ大学病院からの出張者であるN先生だけでした。T先生は状況を察知してか「もうここ(病院)には来ない方がいい、辛い思いをするだけだから。事務的な手続きが終わったら後は好きにしていい」と。N先生は至ってシンプルに「頑張れ。何をどう頑張るのか自分には分からないし、自分には何も出来ないけど、とにかく頑張れ」と。もうこの一言だけでいいんですよ要するに。その後手続きおよび引越しの準備に2回ほど病院を訪れましたが、残りの5人は遂に何も言わずじまいでした。

 大学では「男らしい」「硬派」と評判だった、あの死刑宣告を下したH・S先生も例外ではありません。終始ダンマリを貫いたままでした。H・S先生は今年の4月大学に戻ってきて偶然再会したのですが、最初の一言がこれでした:

「よっ久しぶり、元気にしていた?」

もう怒りを通り越して呆れてしまいました。それ以来あの先生とは一切口を利いていません、挨拶もしません、話しかけられてもシカトしています。彼はすでに忘れているかもしれませんが、ワタクシはあの日のことを今でも鮮明に覚えています。彼の発した言葉の一言一言、その仕草や目つきまで全てを。忘れようとしても脳裏に深く焼きついて忘れられないほどに。H・S先生が”あの日”について何か言うまで、たとえワタクシのこうした行動が礼儀上許されないことでも、姿勢を変えるつもりはありません。

 あと一つ大変だったのは、父親の理解が得られなかったことですね。父も同じ医師であったせいか昔から厳しい人で、甘えというものを許さない人でした。当然、今回のことも「そんな病気は無い!」「気が触れたフリをして甘えているだけだ!」と猛反発しました。証拠となる資料やデーターを持ってきても「こんなものは信用できない!」とかたくなに否定。結局、いくら話しても無駄だと悟ったワタクシは話すことを止めました。それ以来実家へも帰っていませんし帰る気も起こりません。自分の息子を信用していない父親がいる家になんて、誰が好き好んで帰るのでしょうか。

 こうして闘病生活を続けながらも2003年1月、ワタクシは再び大学病院へ戻ってきました。新しいスタートを切るために。