アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

THE ANTICHRIST

今日は休日、2ndコール。初めて横浜の町を探検する。感想としては「ラーメンの美味い千葉」といった所であろう。冗談抜きで横浜(神奈川)には美味いラーメン屋が多い上司の話によると"○○屋という名前の店は、とある有名ラーメン店の暖簾分けの店が殆ど"との事。試しに目に付いたその系列の店に入ったが、これがなかなかイケる。今までラーメンがハズレの土地に住んでいたことが長いだけあって、こういうのは大歓迎である。

 途中、そごうの紀伊国屋書店に立ち寄る。仕事関係の本をあさっていると、ふと一冊のエッセイが目に入ってきた:

壊れた脳 生存する知

壊れた脳 生存する知

作者は外科医で、脳の病気を患っていて、高次脳機能障害を抱えており、そのために仕事を含め多くのものを失なっている。ワタクシにとっては他人事には思えない、反射的に手に取りそのまま一気に読破する。

 本の一説に「外科医は命を救うことが全てで、その後のことは無関心である」とあるが、全くもってよく分かってらっしゃる。外科系、特に内臓系を扱う科(脳、心臓、消化器、肺等)を扱う外科医にとって、ゴールは「患者の生存」である。患者を生かすことが出来ればそれで目的達成、生存した患者のその後の事は基本的にアウト・オブ・眼中である。だから、心外にいた頃も脳外にいる今も、ワタクシの問題は「生きていて、意識もしっかりしているんだからいいんじゃないか。高望みしなくても、楽な科に行けば食っていけるんだからいいんじゃないか」でお終いなのであろう。一つの病気に対して「生存」以外の価値観を持たなければ、こうした高次脳機能障害の問題など、問題の内にも入らないって訳だ。

 また別の項目ではこう書かれている「高次脳機能障害を持っている人は、自分が一生懸命やっているのに出来ない事を誰よりも辛く感じている。その上更に外部からの不理解から来る心無い言葉によって、その傷は更に深くなってゆくのだ」と。全くもって仰る通りである。ワタクシも経験あるから痛いほどよく分かるのだが、誰もやりたくてあんなポカミスをやらかすわけではない。ポカミスをやって一番辛いのは他ならぬ本人自身なのだ。また、何故だか知らないがこのテの障害を持っている人ほど生真面目で責任感が強い場合が多いからその辛さは増幅されることが多い。タチの悪いことに、周りの人間はこういう高次脳機能障害がどんなものか分からないから、ボロクソにそのポカミスを責め立てる。

 百歩譲って、それを「これは高次脳機能障害によるもので、本人に責任はありません」と周りに説明すれば問題は解決するのかといったらそうではない。健常者はそういう説明を一通り受けていても実感が沸かないから、その苦痛にシンパシーを感じることが出来ない。結果、高次脳機能障害者と健常者の間に溝ができ、「君が障害を持っていることは分かる。だけど我々にはそれに共感することができないし、共感できないから同情も出来ない。可哀想だけど、君(高次脳機能障害者)と我々(健常者)は袂を分かつしかない」ということになる。その結果、上記の著者は離婚することとなり、ワタクシは医局とのトラブルを抱えることになってしまった。

 結局、今流行の「バリアフリー」ってやつはまだまだ肉体的障害者限定であって、精神的障害者、特にパッと見それと全く分からない高次脳機能障害者にはまだまだバリアフルな社会である。特にこの日本社会ってやつは異端分子を嫌う、障害者に対し表向き平等に接しているのも本心からではなく、世間体を気にしてやっているのではないかと疑わしくなる。ましてや障害者認定が全く無く、一部を除いて健常者と区別がつかないワタクシの様な高次脳機能障害者にとってはその「世間体」による防御機構すらない。すると選択肢は二つのみ、健常者と一緒にやるか、出て行くかだ。

 一見暗いように見えるワタクシ達高次脳機能障害者の生活ではあるが、こんな事を言う人も中には居る:

 マイケル・J・フォックスも同じように障害によって「ハリウッドのトップスター」という肩書きを失ってしまったわけだが、それでも彼はこう言ってのける、「人生はすばらしい。でもときには、我慢しなくちゃならないイヤなこともある」と。彼の言葉によると、自分はこの病気によって多くのものを失ってきた。でもそれと同じ位多くのものを得ることができた。だから自分は胸を張って言える。自分はラッキーマンなのだ、と。

 この本はまだ読んでいないが、いずれは読むつもりである。同じ高次脳機能障害の"先輩"としての言葉に習う所があるはずだ、とワタクシは考えている。しっかし全く中身と関係の無いナンセンスなタイトルを付け、ラーメンの話から始まって、マイケル・J・フォックスの人生論で締めくくると相変わらず無節操な日記であると今更ながら痛感する今日この頃であった。