アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

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 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「側にいなくたって、声を聞かなくたって、時々姿を見かける度に"あっ、アイツも頑張ってるんだな"って思える。友達って、それでいいんじゃないかなあ」

By 尾崎豊


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


 昨日の話を引きずるようでアレだが、何ちゅーかワタクシは音楽に限らず「パンクなモノ/人/事柄」が大好きだったりする。まぁ、ワタクシ自身フツーじゃないからかも知れんのだが(笑)色んな分野において「王道」とか「正道」とかやらに背中向けて中指おっ立てているようなモンが堪らなく好きだったりする(爆)無論、人と違うことをする事で注目を浴びたいだけの「天邪鬼的構ってちゃん」なんかじゃなくて、たとえ世界中を敵に回す事になっても「ソレで殺されるんだったら本望」ぐらいの覚悟を持って死ぬ気でやっているヤツのソレである。ガリレオ然り、ダーウィン然り、キング牧師然り。最近では野茂英雄然り、宮崎駿然りである。何ちゅーか、皆最初はバカにされていても、最後には「ハッハァ〜凸(`∇´)テメェらが勝手に作った未来図を全部塗り替えてやったぜ。ざまぁ見やがれってんだ」的なトコが何とも言えんのである(核爆)


 話が飛んでアレなのだが(笑)ワタクシがインプやランエボやGT−Rを断固支持するのは、この3車種が持ちうる「パンク精神」故に支持するのだと思うのである。ロードスター(小型オープン2シーター)やインテグラR(FFの本格派)みたいなある意味「独創的発想」の下に生まれたソレを除けば、後は全部海外メーカーが既に作ってしまった感じがするのである。んで、日本のメーカーがソレを作ると、必ずって言って良いほど海外メーカーのソレと比べられたりする。ンでもって、殆どが「歴史と伝統とブランドの重み>>越えられない壁>>日本車メーカーの技術や努力」という事で「官能性、ドライビングフィール、所有する喜び、全体から出るオーラ。やはり日本車はまだダメだ」ってなってしまうワケである。


 んで「クルマにおいてなければいけないモン」とか言わんばかりに主張する「全体的なフォルムが生み出す様式美」とか「官能的なエキゾースト音」とか「何時までも乗っていたいと思わせるドライビングプレジャー」とかいうモンに対し「ソレがナンボのもんじゃい(`◇´メ)スポーツカーに"速さ"以外何も必要ねぇだろ!」と言わんばかりに既存の方向性に背を向けて、今までの「クルマと人との一体感→NAエンジンを積んだFRかMRこそ王道にして正道」に背を向けて中指をおっ立てるが如く(笑)ハイテクデバイスでフル武装したターボ4WDが上記のインプやランエボやGT−Rだったりするワケである。今考えると、この「パンク精神」こそがワタクシが4WDスポーツに憧れるキッカケだったのかも知れない。


 んで、ココ最近R35型GT−Rを巡る報道においての否定意見で最も多いのが、案の定「速いだけじゃ楽しくない」だとか「エンジンに魅力を感じない」とかいった、言っちゃあアレだが古典的なソレだったりするのであるが、ワタクシはこーゆーのは言うまでもなく大好きである。どーせ正統派のソレを作っても、結局はフェラーリやらランボルギーニやらポルシェやらと比べられた挙句、結局は上記の「歴史と伝統とブランドの重み>>越えられない壁>>日本車メーカーの技術や努力」という"時間"が作り出したハンディキャップで結局押し切られて負けてしまうのであるから、ソコを上記欧米メーカーに無い日本ならではのハイテク技術を用いて克服する事が何故いけないのかがワタクシには全然解からんのである。


 こう言っちゃあアレなのだが、ワタクシ的にはゴルフのケイシー・マーティンの件とダブって見えてしまうのである。マーティンはクリッペル・トレノーネイ・ウエーバー症候群(血管拡張性肥大症)に苦しむゴルファーで、生まれつき右足の血行障害を抱えている→全18ラウンドを自分で歩けない→ラウンドの移動は電動カートを使っていたのである。が、コレに対して他の健常なゴルファー達から「ラウンドを徒歩で回る体力があるのもゴルフに重要な要素だ。なのに彼だけカートに乗って体力を温存している」って叩かれたワケである。んで、遂に1998年マーティンがPGAを提訴→2001年に勝訴し、その後マーティンが契約していたナイキ社が「ケイシー・マーティン賞」ってのを設立し、ハンディキャップを背負ったスポーツ選手に対して賞を贈っているワケである。


 コレはあくまでワタクシの独断と偏見なのであるが、ケイシー・マーティンを批判したゴルファー連中も、ハイテク日本車を欧米のソレと比べて格下に見る評論家連中も、ワタクシに言わせれば双方とも「健常者の上から目線」にしか見えんのである。マーティンが望んでその障害を背負ったのか?冗談じゃない、フツーの友達たちと一緒にヘトヘトになるまで走って遊びたかったに決まっているのである。マーティンは楽するために電動カートに乗っているのか??ンなワケねーだろーが。他の選手がヘトヘトになっているのに対して「自分だけカートに乗っている」という事に、周囲からのバッシング以上に「カートに乗らなきゃならない自分自身に対する後ろめたさ」の方が遥かに辛かったに決まってるのである。


 何ちゅーか「障害を抱えて生まれて来る」っていう事が、どれほど複雑で遣り切れないモンを抱えているのかを分かっていないヤツが多過ぎである┐( ̄ヘ ̄)┌大方「もし自分がそうなったら」って目線なのであろうが、後天性のソレと先天性のソレじゃ全然違うのである。例えば、とあるギタリストがある日突然視力を失っても(この場合後天性)ギターを手渡せば見えていた時に覚えていた感触で「ココがボディでココがネックで・・・」って感じで触覚で何とかプレイできるであろう。が、生まれつき目が不自由な人(つまり先天性)の人にギターを手渡したら同じ事が出来るのか。言うまでもなく「弾けるか弾けないのか」以前に「ギターとは何ぞや」っていう具体的な全体像のイメージそのものが無いのである。よーするに、根本的な部分で違うのであるから、話が噛み合わんのである。


 まぁ、コレはあくまで思いっきり独断と偏見が混じっているワタクシなりの見解≒圧倒的マイノリティーのソレなので、マジに受け取らなくても「こーゆーヤツもいるんだ」程度で十分である。第一、ワタクシなんぞを手本にした日にゃあ、人類の歴史は21世紀で終わること請け合いナシである(笑)何ちゅーか、今まで何がしんどかったかと言えば「自分自身にウソついて、違う自分を演じなきゃいけなかったから」事である。演じることによって愛されるのが「ホントの自分じゃない」という事と、演じていた自分が「愛されていなかった」というダブルカウンターを喰らった日にゃあ「ったく、面倒くせぇなぁ(´ー`)愛されないんだったら、ハナッから自分にウソつかなきゃ良かった。世間体?風習?家族?周りの評判?異性が受ける印象?考えるのマンドクセ(´A`)」って感じで(爆)益々あらぬ方向に向かっていきそうな予感いっぱいな今日この頃であった。