アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

NIGHTBREAKER

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「若い人は感性の大風呂敷を拡げてほしい。ハンカチじゃだめだ」

By 猪瀬直樹


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*140文字以内の警告と議論

 ツイッターが何故重宝されてるか分かった希ガスのである。ケータイからでも更新できる手軽さや140文字以内という読みやすさもそうだけど、要はソコから来る「思いついたら何時でも何処でもすぐ書ける&書いた直後に全世界を巡る、圧倒的なスピード」なのである。昔は全世界に向けて何かを言おうとしたら記者会見を開いたり、マスコミのインタビューを受けたり、あるいは本を書いたりとか面倒くさい事この上なかったのであるが、今じゃMLBダルビッシュがやってるように【甲子園の投球回数に物申したり】とか【筋力トレーニングの必要性を訴えたり】とかを移動中の時間なんかを使って即座に全世界へ向けて発信できる。そして発信されたその次の刹那、すぐにでも全世界規模で手軽に議論を始められる。このスピードこそがツイッターの魅力だと思うのである。


 勿論「影響力は発言者を選ぶ」「発言の中には無責任なソレも混じる」「議論は意見の食い違いを更に大きくするだけで、決して融和することは無い」といった欠点もあるにはあるのだが、ソレでも議論は重要だとワタクシは考える。何ちゅーか、ニッポン人は普段から「コミュ力コミュ力」とか言ってるくせに、コミュ力合戦であるディベートは敬遠するのがワタクシ的には不思議で不思議でしょーがないのである。ディベートや議論ってのは言葉の組手、コミュ力乱取りである。よーするに柔道や剣道の試合と一緒なのである。ソレを避けるって事は、ニッポン人が求めている「コミュ力」ってのは本来のソレじゃないからである。ニッポン人のいうコミュ力ってのは「荒れた場を取り敢えず収めるための技術」であり「お互いの本質を見抜きあう技術」ではないのである。だから議論すると確実に荒れる→議論そのものをしたくなくなるのである。


 議論が成り立たないってのは、別にニッポンに限った話じゃないのである。アジア諸国、特に儒教的概念の強い国なんかもそうである。韓国や台湾の国会中継なんかが正にソレであるが、質疑応答が全く形を成していないのである。議論が始まって3分後には罵り合いが始まり、5分後には乱闘にエスカレートして、結論は結局多数決のゴリ押しで決まっちゃうという(笑)ワタクシが思うに、ソレは欧米じゃ「世界は神様から全権を受けた存在である人間が主役」と考えてる一神教が主体→自分達が主役だから自分達の在り方を徹底的に考え議論するのに対し、儒教圏のアジアじゃ「人間も世界の一部で、主役は世界そのもの」と考える多神教が主体→余計な議論はせず”自然”の流れに沿って仲良くやってくのを良しとする、基本的な思想の違いだと思うのである。だから単純に欧米式のディベートを取り入れるだけじゃダメだっちゅー話である。


*生真面目さと表現力

 あとニッポンでディベートが流行らない理由の一つには「ニッポン人がマジメ過ぎるから」というのがあると思うのである。政治家も評論家も、果ては一般人とかもそうであるが、マジメに政治だとか社会問題だとかに切り込んでるブログって、正直な話つまんないのである( ̄〜 ̄;)つまんないとは「中身がダメ」という意味ではなく「読ませようという気が無い」という意味である。延々と長文で問題点とか改善案とかを装飾ナシで書き立てているから、読む方は疲れる&飽きるのである。人によってはコレを「問題に取り組むマジメさの表れ」と捉えるが、ワタクシはコレを「単なるブロガーの自己満足」として捉える。分かる人だけ分かればいい?ソレを選民思想と言うのであり、読者を勝手に選別するテメェは何様だっちゅー話である。


 だからワタクシに言わせれば「自分は正しい&マジメにやってるのに、何で読者は分かってくれないんだ?!」なんて悩みはナンセンス極まりないのである。いくら最高級のコシヒカリだといっても、ソレを米俵のまんま食卓に置いたらドン引きするに決まってるって話である(笑)ただ材料が良いだけじゃダメなのである。その材料を上手に調理する腕前はソレ以上に重要なのであり、ワタクシはブロガーの真価が問われる部分はソコだと考えているのである。正直な話、世の中の真実に関わるホントに重要な情報なんて、その分野を徹底的に極めた第一人者にならないと手に入らない→生でも食べられるぐらいの活きの良い素材なんて、ソレ以外の人には手に入らないのである。だから一般のブロガーは出来の今一つな素材を組み合わせて美味しく調理する技術が問われるのである。


 古典文学とか哲学書とかを相当数読むと分かると思うのであるが、世の中の真理などというシロモノは何千年も前から掘り尽くされていて、ネタもとっくに枯渇しているのである(笑)では今と昔では何が違うのかといったら、答えは「表現方法」である。ドストエフスキーは長編小説で、シェイクスピアは演劇で、ミケランジェロは彫刻で、ピカソは絵画で、ロバート・キャパは写真で、チャールズ・チャップリンは喜劇で、黒澤明は映画で、手塚治虫はマンガで、そしてワタクシはブログで(爆)皆方法は違えど、世の中の”真理”ってシロモノを表現しているのである。表現する方法は幾らでもあるのに、1つか2つの方法に固執して意固地になって世の中に絶望する。ソレを”滑稽”と言わずに何と言えば良いのであろうか。


*過渡期を乗り越えよう

 だから巷で言う「勉強も良いけど、遊んだり文化を嗜むのも大事」ってのは、実はそういう意味なのである。生真面目過ぎる人の特徴の一つに、この”遊び心の無さ”があるのである。今までマジメに勉強する事しかしてなかったから、正論以外で相手を納得させる術を知らない。マジメに生きる事をアイデンティティーにしてたから、ソレから逸れた生き方を安易に選べない。勉強以外の事に熱中する人をバカにしてきたから、自分が間違ってると分かっていても路線変更できない。開国時代や終戦直後みたいに欧米という”正論”に対し追いつけ追い越せの時代だったら、マジメさは最大の効率を生み出していたであろう。が、今はニッポンがそのオピニオンリーダーとして”追いつかれる&追い越される側”になっているのだから、方向転換するのは当然の話である。


 ワタクシが思うに、今がその過渡期なのである。上記にあるようにMLBの浸透によるNPBの変化。ニッポンの第二次産業の停滞&第三次産業の力不足。安さと高性能の両立に飽和点が来てしまったニッポン車およびその他ニッポン製品。国内市場が飽和してしまった&海外に新市場を築けないジャパニーズエンターテインメント各種。ニッポンのありとあらゆる部分が過渡期を迎えているのであり、だからこそ全国民がその在り方を大いに議論する必要があり、そのためにツイッターやブログみたいなオープンソースは重要なのである。かく言うワタクシの文章が世の中を動かすのに役に立つのかと問われたら、ソレこそ「?」が不可説不可説転ぐらいついてしまうんで(笑)そろそろお開きにしたい今日この頃であった。