アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

IMMORTAL SOUL

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「人生の深い感動が込められている作品以外はやりません。お客さまに人生の感動を味わって頂けるものをやれば、必ずある程度のところまでいけます」

By 浅利慶太


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*教祖の条件

 1つ、身内は徹底的に優しくする&敵は徹底的にこき下ろすこと。2つ、根拠があろうが無かろうが物事は自信満々にキッパリと断言すること。3つ、リーダーシップがあり(可能ならば)若くてハンサム/美人である事。この3つを兼ね備えてるモニター前のロンマニアの貴方は、ほぼ確実に立派なカルトの教祖になれるであろう(笑)カルト信者が求めているのは「力強くて確かな”ネ申”の存在」なのである。だから上記3つが強ければ強いほど「どうだい、俺っちの”神様”は強いだろう(`・∀・´)」って鼻高々に自慢できるし「こんな凄い”神様”の魅力が分かる俺っちは、きっと特別な存在に違いない<(`^´)>」って自身への強い肯定と優越感が得られ、更には「新しくて正しい”ネ申”を以って、自分を祝福してくれない古くて間違った”ネ申”を打ち倒すぞー(* ̄0 ̄)/」っていう人生の目的も与えられる。よーするに「”お前は特別な人間だ、お前が必要だ”って言われたいっ(>_<)」という信者の願いさえ叶えてやれば良いのである。


 ワタクシがカルト、あるいはソレに近い存在を強く否定する理由がコレである。教祖は病人だと思っちゃえばイタくも何ともないが、問題は信者の方である。上記にあるように、信者にとって一番大事なのは世の中でも教祖でもなく、自分自身だからである。自分を尊敬して欲しい、特別な人としてチヤホヤされたい。でも自分じゃ何もせず&何も出来ず、ソレを世の中や社会システムのせいにする。でも自分自身で社会を本格的に変革する意思もなく、そのための手段もない。でもプライドがムダに高いから、自分の無力無能を認められない。だから明確な意見と確固たる自信を持った他人にすがり、自分もその一部として威を借りる。そうすればテメェの無力無能を棚に上げたまんまテメェが気に入らない社会をブッ壊せて、しかもテメェは何もせず何の責任も取らないままデカいツラが出来る。カルトは信仰の中身が問題なのではなく、ソコに集まってくるヤツ等がクズなのが問題なのである。


*感動はありがたくない

 今更過ぎてアレなのであるが、ロンドンオリンピック開幕である。オリンピックの試合を観るはずだったが、何時の間にかナショジオディスカバリーに観入ってしまったワタクシが居る(笑)何はともあれ、オリンピックは面白い。スポーツ経験のあるロンマニアの方なら分かると思う&ワタクシもスポーツ経験があるから分かるのであるが、毎回毎回オリンピックを観る度に「どんだけ練習すれば、アレだけムダ無くスムーズに動けんだよ(;´Д`)」って唸らせられるのである。トップアスリートの華麗な動きってのは、想像を絶するような鍛錬から生まれてくるのである。その想像を絶する鍛錬から生まれた心体技を観る度に、ワタクシは「スゲェ…( ̄Д ̄;)人間って鍛錬すればコレだけの事が出来るようになるんだ」って感心させられるのである。試合における華麗な技もそうであるが、ソレを磨く過程で達した境地に対してもである。そんなのが世界中から集まってくるから、オリンピックは感動するのである。


 だからハッキリ言わせてもらうと、マスゴミが煽り立てる”感動をありがとう”ほどウザくてジャマなモンは他にないのである。スポーツを本格的にやっていれば、スポーツでなくても何かを得るために一生懸命何打ち込んだ経験があれば、あとは適切な解説と交えて淡々と試合を流していれば自ずと感動するのである。何ちゅーか、マスゴミのソレは「○○選手の幼少時からの苦労が報われ、逆境に次ぐ逆境を乗り越え、遂にメダルを獲得したんだぞ!凄いだろう、感動しただろう、泣け、さぁ泣け!!」って感じに、心体技とは殆ど関係ないトコで煽ってくるのがワタクシ的に萎えるのである(笑)ワタクシに言わせれば、感動ってのは「テメェでする」モンであり、決して「他人にさせてもらう」モンじゃないのである。こんな下らない演出に感動するヤツってのは、自分自身で感動を掴みに行った事がないヤツである。


 こーゆー感動の煽り方を見ると、こう言っちゃアレだが「ニッポンにはスポーツ文化が根付いてないのでは?」とワタクシは感じてしまうのである。自分達に馴染のないスポーツでも、ニッポン人選手がいないスポーツでも、極限まで鍛え上げられたトップアスリートの身体捌きは観ていて美しいと思うし、ソレを美しいと思ったのがキッカケで「自分もああなりたい」ってスポーツを始める人だっているワケである。だからオリンピックってのは、普段日の当たらないマイナースポーツを売り込む絶好のチャンスだと思うし、ワタクシがオリンピック委員長とかだったらコレを利用してスポーツのシェアを増やして一儲けする(笑)何ちゅーか、ニッポンはスポーツをやる人とやらない人、スポーツ外で必死に打ち込む”何か”がある人と無い人。少数の前者と多数派の後者に二極化してしまってる。そんな希ガスのである。


*数へのアンチテーゼ

 戦いにおいて勝敗を決めるのは何か?答えは「数」である。時代劇で「○×軍何万」だとか「△□藩何万石」の「何万」ってのは中身ではなく、単純な「数」である。戦争は最終的に国力で決まるし、国別のスポーツの強さは選手層の厚さで決まるし、プロスポーツチームの強さは予算の量で決まるし、商売は資本の多いヤツのが圧倒的に有利。つまり数を揃えられないヤツってのは、ある意味戦う前から負けているのである。ワタクシが思うに、ニッポンが一体感だとか根性論を好んだり、下克上とかジャイアントキリング的な物語を好むのは、ニッポンという国には数が不足しているからじゃないかなと思うのである。総数が少ないのを質でカバーして、連帯感ネットワークを駆使してソレを補強する。そして小が大を喰うという話を美談化するといった感じである。


 開国当初のニッポンなんかが正にソレである。数が豊富な欧米列強からニッポンを守るためには、少数精鋭化しか方法が無かったからである。少数精鋭化するためには厳しい教育が欠かせない→自ずと根性論が幅を利かすようになるし、少数精鋭を最大限の効率で動かそうと思ったら意思の疎通の潤滑が欠かせない→自ずと一体感が欠かせなくなるし、元々の数が少ないから簡単に切り捨てられない→安易なリストラを悪とする風習が生まれるってワケである。ソレが悪いとはワタクシは言わん。が、欧米列強が世界中に植民地作りまくってた時代とは違い、今は21世紀である。今がその過渡期にあるんじゃないかなと思うのであるが、その価値観の根源を見つめ直す時なんじゃないかなとワタクシは考える。さて、積んであるゲームを片付けなきゃならないので(笑)お暇したい今日この頃であった。