アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

TILL DEATH UNITES US

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「守られてきた伝統は伝統じゃありません。守られなくたって残るものを伝統というんです」

By 永六輔


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*根性論一刀両断

 ワタクシは根性論が嫌いである。理に叶っていない感情論だからというのもそうであるが、一番はやっぱり「テメェんトコの選手を信頼していない」「相手をバカにしてる」という点である。分かりやすいのが今回のニッポン柔道チームの「負けたのは気合と練習量が足らなかったから」という発言である。他国の選手に気合が無い、他国の選手が練習していないとでも思っているのであろうか。他国の選手だって大舞台で自分の国を背負ってるんだから死ぬ気で練習してる&死ぬ気で試合に臨んでるに決まってるって話である。相手にも同等かソレ以上の根性があって、その上フィジカルや技術で負けた。柔道に限らずスポーツの勝敗ってモンは、とどのつまりそーゆー事だと思うのである。あと「根性が足らない」って自分トコの選手を選手を罵倒するのは簡単なんだけど、その根性の足らない選手を選んだテメェの責任はどうなんだって話である。


 まぁ柔道に関しては「ある意味予想通り」っちゅーのがワタクシの感想である。今まで体格に劣るニッポン人が勝てたのは、歴史的アドバンテージで柔道の戦い方のノウハウを何処の国よりも多く深く持っていたからである。でも1964年に柔道がオリンピックに正式採用されてから既に48年である。48年もあれば経験や実績も増えるし、選手層も厚くなってくるし、ニッポン柔道も研究され尽くしてるに決まってるって話である。同じような知識やノウハウが備わってきたのなら、あとは肉体がモノを言うようになる。よーするに、相撲と全く同じである。相撲に限らず、スポーツってのは最終的にはそうなるのである。陸上はアフリカ系、格闘技はスラブ系、水泳はアングロサクソン系、体操はアジア系。知識やノウハウが同等なら最後は肉体、とどのつまりは人種で決まってしまう。柔道も例外ではないとワタクシは思うのである。


*”柔の道”vs”JUDO”

 でも不思議な事に(単にワタクシが柔道経験に乏しいだけかも知れないが)ニッポンじゃ未だに「自分達がやってるのは武道としての”柔の道”であり、海外でスポーツとして認知されている”JUDO”とは違う」という論調である。ソレに対するワタクシの意見は「武士道としての”柔の道”には理解を示すけど、ソレでもワタクシは”JUDO”を支持する」という事である。何故か?このまんま行くと柔の道は先細りするだけだけど、JUDOは生き残り繁栄する。でもってワタクシは”滅びの美学”を持ち合わせていないので、生き残るであろう方につくというだけの話である(笑)こう言っちゃアレだが、世の中結果が全てである。柔の道が正しいというのならば、ソレを結果として出さなければ説得力が無いのである。でもって結果が出なかった、コレが全てである。


 あとワタクシは「武道である柔の道と、スポーツであるJUDOは違う」という言葉も個人的には気に入らない。何ちゅーか、外国人をバカにしたような発言だからである。何故柔の道が世界中に広まったのか?答えは「形は違えど外国にも武道があって、ソレを尊ぶ精神があるから」である。例えばJUDOが一番盛んなのはヨーロッパであるが、ヨーロッパには騎士道精神ってシロモノがある。ヨーロッパだけじゃなく、他の国々だってそうである。逆に騎士道精神があるからこそ柔の道に理解を示し、ソレを文化の一部として受け入れてるのである。プーチン大統領が「柔道は哲学だ」と言ってるように、外国人がJUDOを単なるスポーツとしてしか捉えていない思ったら大間違いである。ワタクシに言わせれば「武道である柔の道と、スポーツであるJUDOは違う」とか言うヤツは、外国に住んだ事のない&外国文化に触れた事のないヤツである。


 あと柔の道についても言及するが、果たして柔の道って完成されたモンなのであろうかって話である。もし嘉納治五郎が生きていたら、間違いなく「否」と言うだろうとワタクシは思うのである。こう言っちゃアレだが、ニッポン人は「保守」と「現状維持」の違いが分からんヤツが実に多くて、そしてソレは柔の道にも当てはまると思うのである。ワタクシに言わせれば、レスリングやサンボなどの技術を取り込んで成長しようとしているJUDOの方が武道としての在り方としては正しいと思うのである。より良くなるためにトライアル&エラーを繰り返して、時代と共に進化していく。本来”道”ってそうあるべきなんじゃないであろうか。もしもソレによって柔の道が廃れるというのならば、ソレは廃れるべしくして廃れるモンだったって話である。分かりやすく言えば、マンモスやサーベルタイガーやニホンオオカミのソレと一緒である。


*伝統って何ですか?

 ワタクシは思うのである。柔道の国際化を推し進めていたのは創始者たる嘉納治五郎の意向だというが、ひょっとしたら嘉納治五郎は遠い将来こうなる事を予想した上で推し進めたんじゃないか、と。国や文化が違えば武士道に対する解釈が違うのは当然の事であり、ソレがルールとか大会運営だとか形式だとかに現れるのは予想するまでも無い話である。どっちが正しくてどっちが間違ってるかではなく、観点の違いなのである。ソコで「ニッポンの柔の道は絶対的正義にして絶対的指標」と果たして断言できるのであろうか?上記にもあるが、嘉納治五郎だったら「否」と答えるだろうとワタクシは考える。もしも「是」だったら、国際化する必要なんて全く無いからである。つまり「否」であるからこそ、視点を広く持って諸外国の考えを取り入れようとしたのではないであろうか。国際化ってのはただ単に広めるだけじゃなく、深めるためでもあるのである。


 だからJUDOが誕生するのは偶然でも何でもなく、必然の話なのである。んでもってニッポンがJUDOを”逆輸入”するのも、ワタクシは「勝つために止む負えなくやる事」ではなく「柔の道を進化&深化させるために必然の行為」だと考えているのである。そうしなければ、柔の道も相撲ややきうと同じ道をたどるだけの話である。なす術もなく外国人に美味しいトコを全部持ってかれて、何とかしたくても「保守」と「現状維持」の違いが分からんから何も出来ず、同じトコをグルグル回りながら重力に引っ張られて徐々に堕ちていく。第一ニッポン人はインプだとかランエボだとかGT-Rとかいう「邪道」とも言って差し支えないスポーツカーを世界に誇っておきながら、柔道だけは邪道NGだなんて虫の良いにも程があるのである(笑)・・・・という事を柔道経験ゼロのワタクシが語るのもアレなので(爆)さっさと締めて「ROBOTICS;NOTES」の続きでもやろうと思う今日この頃であった。