アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

TWO-FACED

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「隣人を恒常の深みにおいて愛することは、他人の裡なる永遠のものを愛することだ」

By モーリス・メーテルリンク


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*続・働く人のクルマ

 先日アップした【NV200バネット】ネタであるが、どうやら好評っぽいので続報を(笑)まぁコレは商用車→基本的にドライバーカーじゃないから仕方ないっちゃ仕方ないのだが、やっぱ長く乗っていられないのである(^_^;)理由その1は「ドラポジの悪さ」である。クルマのレイアウト上ステアリングが上向きになる&着座位置が高くなるのは仕方ない事なのであるが、お陰で疲れるって話である・・・

「深く腰掛け骨盤を安定させる」「両肩を付けた状態でステアリング全周回せる」「余裕を持ってペダル操作ができる」がドラポジの基本

ところがこのクルマのステアリングは上向いていて径が大きいから、背もたれを上げないといけない

すると重心が持ち上がるから、ちょっとした事で上半身がブレて肩が離れる

( ゚Д゚)マズー

ソレを何とかしようとして、シートを前にずらす

すると次は足元が狭くなってしまい、余裕が無くなりペダル操作がやり難くなる

( ゚Д゚)マズー

運転を重視してステアリング回せる&足元の余裕を確保しようとすると、どうしても前かがみの姿勢で運転せざるを得なくなる

すると骨盤が安定しないから、加速/減速/旋回の度にドラポジがズレる

( ゚Д゚)マズー

・・・という具合に八方塞がりとなるワケであり、特に胴長短足のワタクシにゃ致命傷である(笑)別にこのクルマに限った事じゃなく、運転席が前後方向に狭いクルマだと(ワタクシの場合)必ずこうなってしまうのである(^_^;)ワタクシが2ドア3ドアを好む理由は独りモン&ぼっちだから後部座席に乗せる人がいないのもそうであるが(爆)運転しやすいドラポジが確保しやすいからでもあるのである。


 理由その2は「リアタイヤが常時浮き気味で、空荷の時はグリップしないから怖い」である。ある程度の荷物を積んで走る事を前提にしているのもそうであるが、貨物スペースを最大限確保するためにFFレイアウトにしてる&殆どの重量物が前に集中してる→リアタイヤに負荷がかかってないのである。だからブレーキを強めに踏んでしまうと、リアタイヤがいとも簡単にロック→スキール音がするのである。リア充で毎回何処かレジャーに行ってて荷物が沢山あるのならまだしも、ワタクシはアスペな非リア充の引きこもりなのでソレは無い(笑)つまり乗っていて安心感を感じないから、長く乗るのがしんどいのである(^_^;)まぁワタクシはこの手の商用車には乗り慣れてないだけで、乗り慣れてる人は長く快適に乗るためのドラポジといったノウハウを持っているんだろうが、ソレがあったら是非とも学びたいモンである。


*ニッポンよ、コレがRPGだ。

 こういう言い方はアレだけど、何時の間にかニッポンのエンタメは子供向け&情弱向けのコンテンツに成り下がってしまった希ガスのである(´Д`)=3テレビなんかが正にソレであるが、CNNやESPNナショジオディスカバリーch、あるいはアメリカンドラマ各種を見ていると、ニッポンのテレビ(特に地上波)なんかバカバカしくて観てらんないって話である┐(´ー`)┌だから捻くれモンのワタクシは逆にこう考えるのである。あのレベルの低さは意図的なのではないか、と。海外と競争しても敵わない事は明白だから、質を求める知識層はこの際切り捨てる。ンでもって衛星放送観れないか理解できない層→低所得&低学歴層をメインターゲットにしてるから、あの下らなさとバカバカしさが寧ろ丁度良いってワケである(笑)もうアメリカが既にそうなっているが、経済格差以上に知識格差や文化格差は将来もっと大きな問題になるとワタクシは懸念するのである。


 ワタクシが思うにソレは今に始まった事じゃなくて、もう十数年前からそんな予兆があったのである。例えばゲームのソレである。もう20年前のゲームであるが、アメリカとニッポンで当時一番人気だったRPGを挙げてみるとしよう:

実はワタクシ、双方ともリアルタイムでプレイ済み&クリアー済みだったりする。ワタクシはドラクエファイナルファンタジーといった王道和ゲーRPGも好きだったが、同時に「ウルティマ」や「ウィザードリィ」といった洋ゲーRPGも好きだったのである。でもってワタクシはウルティマ派だったワケであり、コレの前にやっていた「ウルティマ聖者への道(原題Ultima IV:Quest of the Avatar)」は大のお気に入りだったりする。主人公の目的が「世の中を滅ぼそうとする大魔王を倒す」ではなく「人々の規範になる人物である3つの原理と8つの徳を究めた徳の化身アバタールとなるために究極の知恵の写本を見つけ出す」という斬新なコンセプトが、何ちゅーかワタクシのオタク心に剛速球ド真ん中ストライクしたのである(笑)


 でもって、この「3つの原理と8つの徳」ってのが上記「ウルティマVI」のストーリーのキモなのである。このゲームの物語は「地上がガーゴイル族の侵攻を受け、ソレを解決するためにアバタールが立ち上がる」というのであるが、実はこのガーゴイル族というのがドラクエで言うトコのモンスターとは違うのである。単に種族と基本的思想が違うだけで、ガーゴイル族も人間同様に考えるナマモノであり、考えるナマモノであるという事は哲学も持っている→人間同様にガーゴイル族も3つの原理と8つの徳を持ってるって話になるのである・・・

人間側(つまりアバタール側)の徳

基本公理:無限

3つの原理:真実・愛・勇気

8つの徳:誠実 → 真実
      慈悲 → 愛
      武勇 → 勇気
      正義 → 真実+愛
      名誉 → 真実+勇気
      献身 → 愛+勇気
      霊性 → 真実+愛+勇気
      謙譲 → 原理なし



ガーゴイル族の徳

基本公理:統一性

3つの原理:管理・情熱・勤勉

8つの徳:目標 → 管理
      感情 → 情熱
      忍耐 → 勤勉
      均衡 → 管理+情熱
      達成 → 情熱+勤勉
      正確 → 勤勉+管理
      統一 → 管理+情熱+勤勉
      秩序 → 原理なし

     ↓
     ↓
     ↓

プレイヤー(つまりアバタール)は旅の途中でこの原理を解き明かし学んでゆく
     ↓
そして根本となった原因を解決するのと同時に、両種族の和解を図る
     ↓
  (ノ^^)乂(^^ )ノ

・・・という風に、ただ単に「悪者を倒してハッピー」なんていうガキと情弱向けの薄っぺらいゲームではないのである(笑)こうやってゲームをやりながらも哲学や宗教といった深い思想を考え感じ取るのである。当時高坊だったワタクシは、この時既に洋ゲーの深さの真髄を思い知ったのである。因みに我らが「ドラゴンクエストV」のメインテーマはこんな感じ・・・

人間界へと侵攻しようとする悪の大魔王を、伝説の勇者が打ち倒す

たった一行で説明できちゃうのである(笑)でも売り上げは圧倒的にこっちの方が上。何故なら当時の洋ゲーはバランスもグラフィックも悪く、マニア以外にはとっつき難いゲームだったからである。その点DQシリーズは和ゲーらしく細部までシッカリ作り込まれていて、初心者から上級者まで幅広く遊べるようになっているのである。でもって当時は世界のゲームシェアの8割近くを任天堂が握っていた、正に和ゲーの全盛期である。その時ワタクシはこう思ったモンである。もしも和ゲーの良さを取り入れた洋ゲーが出てきたらどうなるのか、と。


洋ゲーの時代

 その予言はどうやら当たってしまったってのがワタクシの率直な感想である。洋ゲーは和ゲーから完成度を高める事を学び、大手の洋ゲーならば今や和ゲーと遜色ない完成度である。そうすると、今度は洋ゲーの最大の武器が活きるようになるって話である。エンタメ大国が長年培った様々なノウハウ、欧米中心の圧倒的な資本力、徹底的な弱肉強食社会から生み出された有能な人材、そして和ゲーから学び取った取っ付き易さと細かい演出。鬼に金棒とは正にこの事である。ソレに比べると、やっぱ和ゲーは「薄い」のである。確かに相変わらず質も完成度も高くて、ストーリーも良く考えて作っているのであるが、何ちゅーかクリアーして三日経ったら忘れるのである(笑)クリアーした後もそのテーマについて深く考える。ワタクシがそういう気分になれるのは、ココ数年だと洋ゲーやってる時だけである。


 何ちゅーか、やっぱ宗教は重要だと思うのである。宗教ってのはある意味、最も完成された人生哲学の一種だとワタクシは思うのである。別に神様を信じなくったって良いのである。何故宗教が世の中に存在し、何故何千年にも渡って人は宗教を信じ続け、何故人々は宗教のために死ねるのか。コレを考えて議論するだけでも、人生の深みって全然変わるのである。でもニッポンじゃ宗教の話は限りなくタブーに近く、コレがニッポンの国際化を阻害してるんじゃないかなとワタクシは考えるのである。何ちゅーか「話せば分かる」っちゅーのは相手が同じ宗教を信じる同一民族の場合に限るのであり、異宗教の異民族相手ではその限りではないって事である。船でしか外国行けなかった時代とは違って、今はモニター越しに1秒以下で異文化が入ってくる時代である。悲しいけど、同一民族同士で仲良く平和にやっていける時代は終わった、そう感じる今日この頃であった。