アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

HELL IS HERE

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「文化とは、人間が他の人々と、仕事と、愛と、環境とに対して心安くなれることだ」

By ケネス・レクスロス


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*真似真似アンド真似

 勉強にしろ仕事にしろスポーツにしろ趣味にしろ何にしろ、他人に「どうすれば上手くなるんですか?」と問われたら「誰でもいいから、とにかく上手い人のマネをしろ」が答えである。何故ならそういう質問が出てくる時点で、基礎レベルでソレが分かってない事の何よりの証拠だからである。だから最初は余計なアレンジを加えようとせず、上手い人の言う事ややる事を徹底的にマネるのが良いのである。剣道や茶道などで言うトコの「守破離」ってヤツである:

  • 守:とにかく師匠(及びソレに相当する存在)の言う事をシッカリ守って、ソレなりに結果を出せるようになるまで頑張る
  • 破:基礎を一通り理解したら、応用として自分自身の特性やアイディアに基づいたアレンジを加え、更に良い結果を出せるように努める
  • 離:基礎と応用を身に付けて、師匠(及びソレに相当する存在)から独立して、自分で新たな”道”を切り開き、必要あらば新たな師匠となる

だからモノマネする事ってのは悪い事でも何でもなく、寧ろ推奨すべきモンなのである。流石にずっとモノマネだけじゃ困るのであるが、モノマネが無けりゃ進化も無いのである。


 何らかの学問やスポーツやモノ作りや職人芸などを修めているロンマニアの方ならば分かると思うが、こういうのって「モノマネの上にアレンジを積み重ねる→モノマネ+アレンジのモノマネの上に更にアレンジを積み重ねる→モノマネ+アレンジ+アレンジの上に(以下省略)」を繰り返す事で良いモンを更に改良して、要らんモンを更に削ぎ落として、新しい有用なモンを更に付け足して、世代交代する度に進化していくモンなのである。だから文化が進化していくために新しい技術や異なる考え方は常に投入されなければならないし、ソレをする為の自由や権利は(他人のソレを侵害しない限り)保証されなければならないのである。何も変わらないという事は保守ではなく停滞であり、現状維持ではなく退化なのである。


*文化の簒奪って何ですか?

 こう書けば、ワタクシが今の欧米で盛んに騒がれている「文化の簒奪(Cultural appropriation)」に対してどういう感想を抱いてるかが分かると思うのである。例えば【高校生のパーティー衣装が思わぬ論議呼ぶ】とか【ケイティ・ペリーが着物姿で新曲を披露】ってのがソレであるが、どんなに優しくて上品な表現をしても「(  ゚,_ゝ゚)バカジャネーノ」以上にならんのである(笑)文化なんてシロモノは昔から盗んで盗まれて、アレンジしてアレンジされて、そうやって進化して広まっていったのである。カリフォルニアロールは文化の簒奪なのか?ベンツやフォードがトヨタカンバン方式カイゼンを取り入れるのは文化の簒奪なのか?そんな事言ったら世界中の殆どの文化が簒奪文化になってしまうんだから、バカバカしいにも程があるのである┐( -"-)┌



 そう、この「文化の簒奪ガー」の何がバカバカしいかって、文化の成り立ちの歴史を否定してるトコのあるのである。折角ネットの発達でボーダレス化が進んで、昔以上に文化の往来が盛んになる→文化の更なる進化が期待できるってのに、寧ろ逆に「マイノリティーの文化はマイノリティーだけのモンだッ!」なんて往来を逆に制限してるんだから、コレをバカげてると言わないでどう言えば良いんだって話である┐(´д`)┌あと【カーリー・クロスが炎上謝罪】のソレもだけど、何故か当事者であるニッポン人がどう思ってるかを一切顧みないで一方的にニッポン人を被害者扱いして、ニッポン人が何とも思ってないのに向こうの連中だけで勝手に盛り上がっている。もうアホかとバカかと┐('〜`;)┌



 ワタクシは常々「差別に逆差別をぶつけても決して相殺はされない。遺恨が二倍になって、寧ろ更に事がややこしくなる」と言ってるのだが、コレが正にソレなのである。マジョリティーがマイノリティーの文化を盗むのはNGだけど、その逆は一切不問。マイノリティー側も簒奪しないってのならまだ考えんでもないが、コレが差別でなけりゃ何なんだって話である。そうやって遺恨が倍になって互いの距離が更に広まって、益々互いに疑心暗鬼になって、細かい事でも穿った見方をして大事にしてしまう。ドストエフスキーは「人間にガチの自由を与えると、殆どの人間がその重みに耐えきれなくて自殺する」と言っていたが、ボーダレスだからこそ選択の重みに耐え切れないんだろうなって思っちゃうのである。


ルサンチマンによる数の暴力

 この文化の簒奪とかやらの最奥にある感情は容易に想像が付く。サブタイにも示してるように、ルサンチマンである。正しいだけで結果を出せないヤツが、その正しさを武器にして結果を出した強い側を叩く。特に現代はSNS全盛期だから、同じ様なルサンチマン人間を共感で搔き集める事が容易になってるのである。とにかく数を集めればカネが動くし、カネが動けばスポンサーも無視できなくなるし、人とカネがあればソレをゲットしようと狡賢い有力者が乗っかってくる。たかが数だけど、されど数なのである。人が集まれば集まるほど安心感が増し匿名性が強くなり、ソレが更なる大胆でバカな行動を促すようになる。現代文明の利器は人間の良いトコだけではなく、悪いトコも時として増幅させるのである。


 ワタクシも発達障害の云々でこの手の被差別的マイノリティーに関わってるから、そういう人等の気持ちが何となく分かるのである(^_^;)よーするに歴史上の経験から「俺達は虐げられているッ!搾取されているッ!」って被害者意識が常にあり、こういう事が起きると「またマジョリティーのヤツ等が俺達にちょっかい出そうとしてるッ!」って過剰反応して大挙して大騒ぎする事で相手の反論の意思を削いで、序に自分達の結束を固めるのである:

ワタクシもマイノリティー側の人間だから、その気持ちは分かるのである。が、そうやって被害者意識を剥き出しにし続ければ物事は良くなっていくのかと問われたら、答えは上記にもあるように「ノー」である。形だけ平和になっても、互いに疑心暗鬼塗れになって分断が深まるだけである。だから理不尽で世知辛いのは覚悟の上で過去を水に流して、対等な立場で一からやり直すしか方法は無いのである。その為には豊かさからくる余裕がある程度必要になるし、その為には経済を・・・マジ話はウケが悪いと相場が決まってるので(笑)撤収するに限る今日この頃であった。