アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

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 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「大理石の塊ひとつひとつに、わたしには彫像が見える。まるでそれが眼前にあるかのごとくはっきり見える。完璧な姿勢、躍動感あふれる仕上がりで」

By ミケランジェロ・ブオナローティ


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*溢れんばかりの躍動感

 先日ヒマだったんでテレビ付けたら、衛星で「ルパン三世カリオストロの城」やってたのである。もう既に観た事のある作品だけど、他にする事も無かった&ストーリーの細かい部分を忘れてしまってたので、ついついまた観てしまったのである。もう38年前のアニメ映画で、ありとあらゆるトコに古さが目立つ作品だったけど、やっぱ今観ても余裕で面白かったのである。何ちゅーか、所々で監督してる宮崎駿(以後パヤオ)らしさが出ているのである、絶妙に緩急つけて観る人を飽きさせない&疲れさせないようにして、所々に印象的なシーンやセリフを紛れ込ませ、後半に入ると怒涛のテンションが迫ってきて、作品が終わったら虚脱感が襲ってくる(笑)以後のパヤオ映画の基礎となってる演出が、この映画にもシッカリ出ているのである。


 でもってこの作品と他の有象無象のアニメの何が違うのかが、今回コレ観て分かったのである。何が違うって、答えはズバリ「躍動感」である。メインキャラは勿論の事、サブキャラやモブに至るまで活き活きと動いてるのである。その躍動感が観てて実に心地良いのである。言っちゃアレなのであるがコレ観た後だと、深夜にやってる有象無象のアニメのソレはマネキンかロボットが動いてる様にしか見えんのである:


ワタクシは常々「物語はリアルである必要は無いけど、リアリティーは必要不可欠である」と言っているのであるが、パヤオ映画の凄さってのが正にこのリアリティーなのである。全く架空な出来事でも「もしもリアルにこういう事があったら、こういう反応をするんだろうな」っていう想像力と、ソレを演出するセンス。パヤオとその他アニメ屋の決定的な違いが、正にこのリアリティー描写力だとワタクシは思うのである。


*リアリティー無き架空

 ニッポンが世界に誇るエンタメ産業と言えば、間違いなくマンガとアニメであろう。その先駆者が誰かと問われたら、多くは「手塚治虫」って答える事であろう。手塚治虫石ノ森章太郎赤塚不二夫藤子不二雄等々。こうした偉大な先人たちが戦後のニッポンにおけるマンガ文化とアニメ文化の基礎を作ったと言っても過言ではないであろう。その手塚治虫であるが、晩年は「自分達がマンガとアニメをメジャーにしたせいで、ニッポンの子供達が本を読んだり、映画を観たりしなくなってしまった」と嘆いてたらしいのである。確かに今時の「マンガしか読んでないヤツが書きました」と言わんばかりのマンガや「アニメしか観てないヤツが監督しました」と言わんばかりのアニメを見てたら、手塚治虫の言わんとしてた事が分かるってモンである( ̄〜 ̄)


 多分手塚含む上記の先人たちってのは、自分等の作品を映画や音楽や本と同じようなモン、つまりアートの一種だと考えていたのであろう。当初はまだ本だとか映画だとかのマジメな作品からの影響を直に受けていた世代が作ったから、子供向けとはいえシリアスなメッセージや大人向けの演出があったりしたのであろう。が、世代を重ねる毎に上記で手塚治虫が危惧してた「マンガとアニメしか知らない世代」が中心になってきて、ソコから色々とおかしくなったんだと思うのである:

何ちゅーか、アニメ属性の無いワタクシですら、パヤオの言わんとしてる事が分かってしまったのである(^_^;)分かり易く言うと、エヴァンゲリオン作った時の庵野秀明と同じ心境なのである、庵野ギーク的な作品を作って、ギーク達の間で互いを高め合うような効果を期待してたんだけど、結果としてナードばかりが集まって作品に依存するようになってしまったのは有名な話である。パヤオ庵野が仲良くなったってのも、すんごい良く分かる話である。


 そう、今のアニメの何がダメかって、何時の間にか観る側も作る側もナードに乗っ取られてしまった事である。最近頻発してるアニメオタク絡みの数々の騒動ってのも、ナードが起こしたと考えれば全てに納得のいく話である。ナードってのは兎に角後先見ずにカネを使うし、作る側もそのカネが欲しいから、後はそのままズルズルと逝っちゃったって感じである┐(´д`)┌ナードにしかウケないような内輪ネタや露骨な性描写が前に出るようになって、真っ当なファンが益々離れていって、作る側はナード連中をキープするために更に内向的になっていく。正に悪循環と言える状態である、こんな中から次世代のパヤオ手塚治虫が果たして生まれてくるであろうか?答えは「断じてノー」である。


ギーク>>>ナード

 そう、パヤオとか手塚治虫とか庵野秀明ってのは、ほぼ間違いなくギークなのである。彼等は純粋に自分達が良いと思った事を形に出したくて、その形が偶々アニメだったってだけの話である。既に庵野がソレやっちゃったけど、彼等ならアニメ映画だけじゃなく、実写映画や演劇や絵画をやったとしても、ほぼ間違いなく成功していたであろうし、一般ウケも問題無かったであろう。何故ならば、彼等はギークだからである。ニッポン語じゃ共に「オタク」って呼ばれてる両者であるが、英語じゃギークGeek)とナード(Nerd)は天と地ほど違う存在である。でもってサブタイが示すように、ワタクシが目指してるのは前者である。まぁまだ後者が結構残ってるのがアレであるが(笑)まぁ頑張るとしよう。

ギーク ナード
特定の事柄に対し強い関心を抱いてるだけで
基本的に一般人と変わりない
人間的に問題アリなのが少なくなく
特定の事にしか関心を持たない
他の事もやろうと思えば一通りこなせるけど
純粋にソレが一番好きだからやっている
他の趣味で全部弾かれたからだとか
能力的にソレしか出来ないからソレをやっている
基本的に一般人だから人間関係に問題は無く
周りを気にするから見た目も悪くない
人間的に問題アリだから人間関係も基本ダメで
周りを気にしないからルックスもダメ
日常的に人と交わってるからコモンセンスがあり
ルールやマナーに関しても一般常識を弁えてる
基本的にぼっちだからコモンセンスが不足してて
ルールとマナーに関しても自己中心的に考えてる
自分の行動は自分や仲間だけでなく
部外者も意識の範疇に入っている
自分と同志だけで世界が完結しているため
部外者がどう捉えるかを考慮していない
積極的な理由で好きになった趣味だから愛着があり
苦しくても長年やっていく傾向がある
消極的な理由でやってる趣味だから愛着もなく
飽きたらすぐに趣向を変える
人間的に出来ているため収入は多い方 人間的にダメだから収入も少ない
良い意味で子供っぽい 正真正銘ただのガキ
正真正銘コンテンツを愛している コンテンツは自己愛を表現するための手段
社会や世間に対し肯定的で、他人を信用している
余所者に対しても寛容で、異論や批判も受け入れられる
信じられるのはオタク仲間と所属コミュニティだけ
余所者には基本冷たく、異論や批判は許さない
意外と周囲の称賛と理解は然程求めていない 実は周囲の称賛と理解を強く求めている
趣味は自分の世界の一部で、無くなっても平気
自分が趣味を支配しコントロールしている
趣味は自分の世界の全てで、無くなったら死ねる
自分が趣味に支配されコントロールされてる
自分の興味世界の更なる繁栄と成長を望んでいる 自分が楽しければ永遠のそのままで良い


 とまぁ、簡単に分類するとこんな感じである。前者にあるような趣味人な人、リア充にも結構居るんじゃないであろうか。逆に世間から疎んじられるオタクってのは、大概後者の事である。上記でパヤオが言ってる「オタク」ってのは、間違いなくこのナードの事を言ってるのであろう。そう、アニメなどの各種業界が媚びて良いオタクはギークだけであり、ナードを相手にしてはいけないのである。後者を相手にしたら最後、ネガティブで内向的な悪循環に入っていって、抜け出す事が困難になっていくからである。アイドルの握手会だとか声優のイベントとか、正にその悪循環にハマった一例である。さてワタクシも何だかんだ人の事は言えないので(笑)ボロが出る前に撤収しようと思う今日この頃であった。