アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

VOLUME 4: SONGS IN THE KEY OF LOVE & HATE

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「我々は外部から、他人から加えられし悪。つまり我々の排除し得ない悪に動乱させられながら、つねに自己の力で排除し得るにもかかわらず、己自身の悪とは抗争せず」

By マルクス・アウレリウス・アントニヌス


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*排除って何ですか?

 今日もロクなネタが無いので、ダラダラ展開で行かせてもらうとしようジャマイカ(笑)今回の選挙で一番良く言われてるのは「与党が良かったのではなく、野党が悪かったから」という論調である。民進党が分裂したのと、希望の党小池都知事が「リベラルは排除する」と言ったのが求心力を落とす原因になったのだとか。が、ちょっと待って欲しいのである。この「リベラルは排除する」発言の、一体何が問題なのであろうか。共産党社民党も、改憲派新自由主義者は党内から排除するであろう。そういう人等は党の方針に合わないんだから、言うまでもなく当たり前の事である。だからリベラル思想が希望の党の方針に合わないのであれば、リベラル派を排除する事の何が悪いのかって話である。



 だからワタクシも少し考えてみたのであるが、何となく答えが分かったのである。何故そうなるかと言えば、マスコミや一部世間では未だに「リベラルや護憲派≒善い人、クリーンな人」「保守や改憲派≒悪いヤツ、ダーティーなヤツ」のイメージが多かれ少なかれ残ってるからである。だから小池都知事が「リベラルは排除する」と言ったら「”善き”人達を排除するとはどういうことかヽ(`Д´)ノ」って反応になって、逆に共産党社民党立憲民主党から改憲派新自由主義者が排除されても「まぁ”悪い”ヤツ等なんだからソコんトコはしゃーない( ̄Д ̄)」って反応になるのである、一応デジュール上ではリベラルも保守も護憲派改憲派も平等な立場なのであるが、デファクト的には善悪二元論が先へ行っちゃってるのである。


*普遍的正義の国、ニッポン

 ワタクシが思うに、ニッポンにおける政治論争や選挙ネタが盛り上がらないのも、つまりそういう事なのである。選挙で選ぶまでもなく、ニッポン人の心の中には既に”正義”が存在しているのである。所謂「政治家や総理大臣なんて誰がなっても同じ」っていう言葉が出てくる理由もコレで、誰が上に就いても”ニッポンの普遍的な価値観”を飛び越える事は出来ないから、出来る事は根本的に変わらないからである。ニッポンは実質的な単一民族&単一文化であり、基本的な価値観や哲学をほぼ全国民で共有できちゃうから、厳密な法律や規則を定めなくとも「何が良くて何が悪いか」の大まかな判断を下せちゃうのである。だから法とかで権利が認められようと、選挙で選ばれようと、その”普遍的正義”的にダメならば受け入れ難いのである。


 無論、ニッポンにも少数派は存在するのであるが、少数である故に”住み分け”して殆ど無視できちゃうのである。多文化他民族な外国じゃグループ毎に価値観が180度違うなんてのがザラだから「好きにして良いけど最低限コレだけは絶対に守れ」っていうルールが最上位価値観として存在するし、納得は出来なくとも選挙で選ばれた相手には敬意を示すのである。だからコメンテーターがテレビでこの様な発言をするなんて、真っ当な民主主義国家じゃあり得ないのである:

何故コイツがココまで取り乱すかって、やっぱコイツも古いニッポン人だから、心の中に「ニッポンはこうあるべき」ってのがあって、ソレをニッポン国民の皆が共有してるからと思い込んでたからである。ワタクシも部活とかで経験あるから分かるのであるが、集団主義が強くなり過ぎると皆が同じ事を考えてると錯覚して、ソレが行き過ぎると「自分の考え=全体の考え」ってなってしまったりするのである。でも残念な事に今のニッポンは多様性が進んで、ネット社会になり様々な考え方の表現場所が設けられたから、全てが変わってしまっているのである。


 民族や宗教や所属ごとに考え方が違うからこそ共通のルールである法律が最上位の価値観として君臨し、完全な納得なんて得られないからこそ選挙の結果を尊重する必要があり、選挙で支持を得るために発言の場が必要だからこそ言論の自由は最大限守られなければならない。コレが民主主義や選挙の基本なのである。そう、選挙や裁判で問われるのは「ルール上における一番妥当な判断」であり、普遍的な正義ではないのである。なぜなら正義ってシロモノは、民族や宗教や所属によって区々だからである。でも上記にもあるようにニッポン人は実質的に単一民族&単一文化だから、どーしても普遍的な正義に拘っちゃうし、そしてソレを他人に押し付けちゃおうとしちゃうのである(^_^;)


ロールプレイングゲームに見る正義

 そのニッポンならではの正義観が良く表れているのが、RPGだとワタクシは思うのである(笑)洋ゲーRPG(FO4、TES5、ウィッチャー3など)をやってて思うのは「価値観はプレイヤーに委ねられている」って事である。結論は選んだ選択により変わっていって、でもってどの結論にも正解は無いのである。言い換えればどの結論に辿り着いたとしてもソレはプレイヤーが選んだ道であり、プレイヤーがソレに満足していればソレがグッドエンディングなのである。ワタクシはこういう考え方は好きなんだけど、でもこういう価値観はニッポンのゲーマーには中々受け入れらいみたいなのである(^_^;)どうやらどの選択肢しても曖昧な終わり方になるのがスッキリ来ないし、何をやっても良いと言われると何をやったら良いか分かんなくなるみたいである。



 でもってコレがJRPGになると、話は全く変わるのである。プレイヤーは模範的な英雄的行為をするように強いられてしまい、ソコから脱線したくても脱線できないのである(笑)どーでもいい人質を救うために単身で危険に身を晒して、陥りたくもないピンチに陥って、ブッ殺してシチューの具にしてやりたいぐらいの敵にまで更生のチャンスを与えなけりゃならないのである(爆)でも和ゲー好きからすればソレが「実に美しい人間の在り方」であり「その結論に辿り着く事こそ人生における真理である」と信じて疑わないのである。でも今回こうして”悪”とされている改憲派や保守派が選挙で連戦連勝できるようになったのを考えると、ニッポンも今変わろうとしてるトコなんじゃないかとも思う今日この頃であった。