アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

HABITUAL LEVITATIONS (INSTILLING WORDS WITH TONES)

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m

「義務が権利を作り出すのであって、権利が義務を作り出すのではない」
By フランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアン

 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*社会活動って必要ですか?
 同じ発達障害当事者でも、普段の仕事が忙しくて啓蒙活動などに割く時間が無い当事者と、殆ど働いてないけど講演会などのイベントに積極的に参加して社会を良くする為に頑張ってる当事者、果たしてどっちが良いであろうか。コレは色んな考えがあるだろうと思うが、ワタクシの考えは「圧倒的に前者」である。というのも(ブラック企業でない限り)忙しいという事はソレなりに稼いでいるという事であり、稼いでるという事は国民の三大義務を立派に果たしてるという事であり、この「発達当事者でも立派に社会人やれる」って事実を示す事自体が大きな啓蒙活動だからである。イベントは理解者しか集まらんが、就労は非理解者に対しても強くアピールできるのであり、そっちの方がずっと重要だからである。


 そう、発達障害を今後も啓蒙していこうと思ったら、啓蒙する相手は健常者が中心の一般社会なのである。ソコへ向かってどうアピールするかが、今後の発達障害界の大きなトピックになっていくのである。昔大阪府知事をやる前の橋下徹がテレビか講演か何かで「自分の要求を相手に通すにはどうすれば良いか」の話をしていて、橋下は3つの方法を挙げていたのである。その3つとは:

  1. 合法的に脅す
  2. 慈悲を乞う
  3. 利益を供与する

であり、ベストアンサーは勿論3である。そう「発達障害でも上手くやれば戦力になる」という事は、ソレ即ち企業や自治体や国に対し利益を提供してるという事であり、1と2しかないイベント参加よりも遥かに有意義な社会活動なのである。だから仕事が忙しくてイベントに参加できず社会活動をしてない事は悪い事でも何でもなく、寧ろ素晴らしい事なのである。

*脱弱者のススメ
 障害は確かにクソ不便だけど、不幸ではないし弱さでもない。コレは障害に関するワタクシのジャスティスの1つである。でも発達障害に限らずこの手の社会運動ってのは、必ずって言って良いほど不幸性と弱者性を前に押し出して、批判や反論を許さずにゴリ押しするスタイルが定着してしまって、当事者の一人としてワタクシも迷惑してるのである('A`)私達は不幸で可哀想なんだから、世間は同情してくれて当然。昔散々加害されてきたんだから、やり返しても文句は言わせない。私達に多少有利なやり方になったとしても、昔の諸々の穴埋めなんだから仕方がない等々。障害だけでなく少数民族然り、移民然り、フェミニズム然り、戦争犯罪然り。みんなやり方が同じなのである┐(´д`)┌


移民キャラバンに同行、米国へ向かう背景を解説

 要するにコレって、ソ連が健在だった頃に世界中で起こってた階級闘争のやり方そのものなのである。嫉妬とルサンチマンを煽りに煽って連帯を募って、マスコミを巻き込んで数と勢いで有無も言わせず押し通して、相手の賛同や理解を得るのではなく「兎に角勝てばいいッ!物事を良くするのは勝って支配権を得てから対処すればいいッ!」って感じに勝利を収める事が主目的になってしまってるのである。でもって古今東西の歴史が示してるように、この方法が上手く行った事はないのである。大概が勝った後に革命し返されないように相手を弾圧して、物事を良くする事は後回しになって、結局革命し返されて元の木阿弥ってパターンで終わってるのである。歴史がソレを示してるからこそ、今時は殆ど誰もソレに賛同しないのである。


ゆっくり解説 階級闘争とは? マルクスの資本論 第3篇 第8章 第2節

 まぁ政府転覆は極端な例だけど、故にワタクシは不幸性や弱者性を押し出して革命を狙うようなやり方は賛成できんのである。何故かと言えば、そういう方法で権利を勝ち取ったとしても、相手としては”奪われた”という気持ちになるからである。そうなると当然、融和なんか出来なくなってしまうのである。グダグダ文句を言われないように表面上を取り繕って穏やかにやってても、心の中ではデカい隔たりが生まれてしまってて、一層本格的に踏み込めなくなってしまうのである。表面上に出なくなったら今度は「差別の意図があるに違いないッ!」で騒ぎだして、ソレに対するマニュアルが出来て隔たりが更にデカくなって、後はその悪循環である。

*過去は過去、今は今
 話を発達のソレに戻すと、コレはワタクシの私見なのであるが、やっぱ就労できるのに就労したくない人、社会運動による変革を所望する人ってのは、過去のトラウマやイヤな思い出に固執してしまってる場合が多いのである。昔いじめられた云々、職場を追い出された云々で社会や健常者に恨みを持っていて、ソコから「社会人になるって事は連中に屈する事だッ!アイツ等に目にモノ見せてやらんと、せめて一矢報いないと気が済まないッ!」って意固地になってしまってるのである。でも社会活動に打ち込んだトコで世の中そう簡単に変わる筈もないし、社会や健常者が謝罪してくれる事なんて無いのである。


発達障害とフラッシュバック【ADHD・ASD(アスペルガー)】

 そう、世知辛い話であるが、社会や健常者が過去の加害について謝罪してくれる事なんて無いのである。百歩譲ってあったとしても、ソレは場を納めるための形式的なソレだけであり、当事者が望むような心からの謝罪は決して得られないのである。じゃあどうするかって言ったら、過去をチャラにするのである。過去の事は全てチャラにして、その代わり相手にも発達を主理由にした偏見と差別をしないよう約束させて、ソコから出直すって感じにである。健常者社会側は差別と偏見を極力無くして社会参加できるチャンスを増やして、当事者側は可能な限りソコに参加する。必要なのは議論ではなく、実践。改めてそう思う今日この頃であった。

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